“2025年7月5日!!-“南海トラフ巨大地震”の警鐘!!-現代<今>を生きる”卑弥呼”復活!!-“シャーマン”の啓蒙的”文芸書”!!- “私が見た未来”-完全版”たつき諒”著のレビュー!!
"2025年"令和7年。
日本時間"7月5日"正午前。
私は石川県奥能登の
"曽々木海岸の
海原"に佇んでいた。
厳しくも刹那(切な)いこの地の
"波の花"の乱舞は
いまは激しくはなくとも、
私は日本海の
荒波に再び"釘付け"になり、
その海を凝視し続けていた。
人生2度目の"再訪"であった。
"奇岩"と謂われる岩壁の
変形はこの海の壮絶な
厳しさを物語るに充分だった。
数百回に及ぶ
"余震"はこの北陸地帯でも
まだ持続したままだった。
この海原からの
津波はきっと
こないだろう・・
"あの予言"は的中した。
2025年今朝未明、
想定を遙かに凌駕した
南海トラフ沖巨大地震※(詳細後述)が
日本の九州や四国、
近畿、東海、含む
南関東の西湘湘南地域および
東京都心部臨海地帯を含めた
首都園全域に去来し、
巨大津波が海浜や湾岸を
駆け上がり遡上(そじょう)し
日本という島国に上陸した。
"Truth is stranger than fiction"
という言葉がなぜかふいに浮かんだ。
"事実は小説よりも奇なり"という
著名な英国詩人バイロンの言葉を
鵜呑みにすれば・・
"私が見た未来"の書籍で述べられた内容は
現実に将来起こり得る"事実"は
もっと辛辣で過酷であるという
そんな可能性が生じ始めていた。
"将来"いつになったら
嗜好品にありつける日が
また来るのだろう・・
そんな未来が果たしてくるのか・・
私はいつものようにそんな
惚(とぼ)けたことも
思い巡らせていた。
そして手持ちの
最後の紙タバコの
1本に火をつけた。
昨夜のホテル(旅館)の
夕飯は"格別"だった。
奥能登の心から
暖かな旅館の方々の
もてなしは躰に染みた。
そして最後と
なるかもしれない
奥能登の日本の吟醸酒を
たしなんだ。
もう二度と
酒を飲むチャンスは
こないかもしれない。
"余酒"をなめながら
結局は今朝の明星まで
眠ることができなかった。
"史実"が"滑ってゆく"
つまりはそれは
何事もないことを意味
するということを
ずっと祈っていた。
しかし
そうはならなかった。
この海原に面した
北陸の旅館もまた
暫くの間揺れたが
けが人は一人もいなかった。
ガスも電気(北陸電力)
も水道も大丈夫であった。
"厨房"では朝食の準備を
し始めた頃に揺れが発生した。
普段よりは配膳は
遅れた様子だったが、
旅館では朝食まで
ご馳走になれた。
そしてあの"予言"が
的中してしまった。
鎌倉の長谷で生まれ、
私の住む古都"鎌倉"は
壊滅状態の様子だった。
標高つまりは
海抜よりも低い河川と道路へと
津波は"遍路"を変えた。
津波は勾配の緩い河川ばかり
の鎌倉の河岸堤防を軽く越え
市街地や田畑に浸水し、
神社仏閣の殆ど総ては
津波の濁流の渦の中に沈み
濁流物と化した。
鎌倉に聳(そび)えていた
鎌倉時代からの牙城とも呼べる
"鎌倉山"や"源氏山"は
津波の脅威にたいして
"礎"(防波堤)には
なってはくれなかったようだ。
私の暮らしていた市内
内陸部の地元地域の建物家屋は
直接的な高い津波は
免れたものの、
浸水し倒壊した。
"曽々木海岸"の
駐車場に停めている
カーラジオからは
北陸地方の地元ラジオチャンネルが
連鎖的な巨大地震が太平洋沖で生じ
きわめて広範囲における
深刻な津波の脅威による
大災害がほぼ同時かつ多発的に
起きたことを聲高に叫び続けていた。
地方から遠征した
報道ヘリからの
情報は一向に
混乱し錯綜していた。
デマかも知れないが、
富士山麓のどこかで
富士山が永い眠りから覚醒し、
黒煙を吐き出しているという・・
あの"予言書"には書かれて
いないことだった。
国家政府の統治はおろか、
ネットワークは完膚なまでに破壊寸断され
あらゆる情報が遮断されてしまったままだ。
首都中枢機能が完全に
麻痺しているかにみえた。
未だ関東地方に
まともに電力が
送電されていないのは
明白だった。
確実な状況の把握が困難で
全くといって不明であると
ラジオが叫び続けている。
国家が6時間以上に渡って
機能していない史実は、
第二次世界大戦後いや、
戦前においても"226事件"おいても
おそらくはなかった筈だった。
既に6時間にも
渡って持続する
太平洋沿岸での
広大な地帯で生じた
"押し波"と"引き波"。
遡上した津波が
もたらした濁流は
破壊された鉄筋の建物や
木造家屋や自動車、
鉄道車両、
打ち上げられた船舶、
森林の樹木や地面や
陸上にあったあらゆる
総てを巻き込み
海岸を浸食し消失させ、
美しかった海原の景色を
一変させてしまった
ことだろう。
濁流と濁流物の中の
逃げ遅れた
人々・・そして瓦礫の暗闇の中で
光(救助)を待つ人々の
姿が目に浮かんだ・・・
生存率は72時間を超過すると一気に低下する・・
瞬きもせずに奥能登の
"曽々木海岸を凝視していたが
ふと目頭が熱くなり
私の効目である右側から
涙がこぼれ落ちた。
書籍構成は無論のこと、
手にしたこともなかった
1999年7月にひっそりと発刊された
あの予言書の初版本にあった
表紙の"彼女"の右目から
流れていた"水色の泪"・・
私はその涙を
憶いだしていた。
25年以上の歳月を経た
たった今、私は
その本当の意味を
しっかりと感じとった。
それは無能力で鈍感な
私とは比べものにならないくらいに
遙かに辛辣な哀しみの涙で
あったに違いない。
預言は狂気とみなされ
誰にも相手にされることもない。
"心の声"は・・
誰も聴くことがなかった。
多くの凡庸な人間にその超越した
非凡な能力は理解されることもなかった。
どれほどの無念と
無力感や喪失感や絶望感を
著者は当時"垣間見た"ことだろうか。
その真実や確信を
ひっそりと抱えたまま時は過ぎた。
たとい理解者がいたとしても
きわめて少数の者に限られた。
しっかりと抱きしめ、
口づけすることさえ
それは"不可侵"であり
誰にも赦されることはなかった。
シャーマンとして
巫女として"卑弥呼"のように
生粋の預言者としてこの世に生を受け、
2011年の"3.11"の
大災害を感じとっても
尚事の重大さを啓蒙告白し世間に
その事実を確実に流布することは
現実的にはまず不可能な事だった。
生来リアリストであった私とて
何の能力もない平凡な人間だった。
まだ若かった頃の自分。
そんな話は興味もなかったし、
まるで知らなかった。
そんな人間の自分がなぜ
預言を"信じた"のだろうか。
本当のことはわからない。
生来私のIQは他人より
遙かに劣ってはいた。
しかしEQ(感情指数)と
AQ(達成指数)が高いとされていた。
"Adversity Quotient"(AQ)
="逆境指数"だけが
異常な数値で高かったのかもしれない。
生死を彷徨う時、
重大な決断に
迫られた際、
いつも最後は
自分が本心で信じた"直感"のみで行動し
こんにちまで"生き存えた"だけにすぎなかった。
私は預貯金の多くを
散財していた。
"車内”にはおよそ2千枚以上の500円硬貨を
銀行から既に換金し保有していた。
米国だけでなく、日本においても"暗号資産"(仮想通貨)が浸透した
2025年、非常事態(災害)下において
ひとが最後に最も頼れるのはやはり"硬貨"=現金であった。
見知らぬ困った者に総て渡す為に積載していた・・。
不動産以外の有形個人資産は
既に"隔離"し別の場所へ
移動尽くした。
鎌倉には不動産以外何も
残してきてはいない筈だ。
今後はたいした
役に立つとはとうてい
思えない"自家用車"もこうして
北陸の地で今も私の
背後で停車している。
"非常食"と"飲料水"は
必要最小限だけの数週間分を
用意しているに過ぎなかった。
飲料水を自家用車に大量に
過重積載するのは現実的ではなかった。
車の後部座席とトランクには
膨大な量の"液化ブタンガス"と
車が目的地まで到達できる限りの
数週間分のガソリン引火性液体燃料を搭載していた。
車が生涯二度目の
横転事故にでも遭遇し爆発すればこの私自身の
シルエット(痕跡)さえ残らないかもしれない。
しかし私は日本の危険物国家資格を
全て有していた。
被災地は今後極めて深刻な水不足に
なることは間違いなかった。
これから
真夏を迎える。
餓死する前に
脱水死がまず先だ。
水田や池の淡水を濾過し安全な飲料水に
する為にそして怪我を緩和するための
火炎による原始的な
煮沸消毒は必須条件であった。
そして私には特技があった。
多くのひとの命を救えるかもしれない。
瓦礫や泥に埋もれ破壊されたとされるガス・コンロや
あらゆる火器は、私の改造力と修理の技術できっと活かせる筈だ。
修理するための道具は完全に自家用車に搭載していた。
国からの援助は
必ずや
相当の遅れが生じる。
救援や物資のサプライが同時に
行われることはまずあり得ない。
滋賀や長野や岐阜よりは
"静岡"や"大阪府"、さらに被害が
甚大な"愛知"を選択せざる得ない
苦渋の英断を政府には
託されるだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=V9e5yuZ1CxA
西湘や湘南や横浜や川崎を
抱えた"神奈川"はずっとその後だ。
何週間後になるか・・。
食料不足に加え、
水の決定的な損失は、
衛生を劣悪とし、
窮極的な悪化が懸念される。
煮沸消毒された
"水"が先決だ。
私は積載した燃料の
すべてを困った者に
手渡すつもりで購入していた。
津波に冒された
沿岸被災地に近づくに
従ってかろうじて機能している道路は
駆動可能なマイカーで埋め尽くされて
ゆくだろう。
それは空輸以外の
地上での援助物質の到着を拒否し、
困難にするに間違いない。
自分の車もまた救援の邪魔に
なっては決してならなかった。
被災地への地元"湘南"に帰化
するまでの道程は多くの日数が掛かる。
そして私は・・
今日こうして
北陸地方に来るまでに
自分より遙かに
尊い命に可能な限り
"旅券"をばらまいた。
湘南沿岸に在住する
多くの肉親や親友たちが
湘南海岸から少しでも
遠ざかる為のせめてものそれは
"苦慮し尽くした悲願の策"であった。
しかしその旅券は
帰宅までの道標も
交通費もない"片道切符"
の旅行券であった。
どんなに笑われようとも
地元から"乖離"(かいり)することを
極端に拒む老人や親友や先輩には
"今日の午前中"だけはせめて
鎌倉の"山のうえ"に居て欲しいと
昨夜までずっと懇願し続けた。
そんな粘り強い私の
しつこい電話は最後には総て
確約されたような
手応えを感じた。
相手はついに
根負けしたのだ。
"彼等"は皆無事な筈だ。
そう信じていたい。
彼等の愛している
ペットの犬や猫たちも。
そう、きっと
みんな元気で
大丈夫だ。
いつも怒ったようで
実はほんとうは甘えていたような表情の
遠い記憶にある美しい永い髪の
"あのひと"の面影が
突然脳裏によぎった。
生活拠点を考慮すれば、
きっと"彼女"も
必ず元気な筈だ。
タバコの灯火(ともしび)が
いつのまに
燃え尽きてしまっていた。
"奇跡"は本当に
信じた者にしか絶対に訪れない。
そしてその願いは
"選別"され、
ある者にのみにだけ
その夢と願いを叶える。
それが
"奇跡"の
本質である。
もう決して
若くはない、
この私が生き抜いて
確信してきたそれが
生きることの唯一、
本当の本質、
真実だった。
私は"あの予言書"を
一度読んだだけで
なぜか信じた。
それは思いがけない別角度からの
鋭い視点で"奇跡"についてあの書が
触れていたからかもしれなかった。
そして、
ほかにも
とても大事なことが
書かれていたような
気がする。
・・日本。
80年周期で何度も苦難を乗り越え
"奇跡"を起こしてきた日本人たち。
諸外国の見識者からも
リスペクトされ続けてきた
アジアの極東の国。
またもや
過酷な"試練"の
時代が
到来した様子だ。
"今"から
5年前の2021年。
会話さえ握手すらできずに
"新しい恋"さえ危ぶまれた
"Covid‐19"の渦中そんな
"非接触"の時代だった。
復刻され
大幅に改訂され
再出版された
"予言書"の表紙の
"彼女"は
""泣くことはヤメ""ていた。
1999年の・・
右頬に流れていた
"涙"はなかった。
私はいま再び
あの表紙を強く
憶い起こしていた。
その
本当の
意味を
噛みしめた。
奥能登の
この"曽々木海岸"
の潮風に打たれ、
ふいに私の頬を
つたっていた
涙はもう、
いつの間に
すっかり
乾いていた・・。
++++++++++++++++++
上記の記事内容は
"2025年の出来事"であり
当然完全なフィクション=
架空の話(私小説)である。
"事実無根"であるに
こしたことのない災害であるが、
現在の私にとって
将来の2025年7月5日
は"ロケ地"を変更する可能性はあっても
かなり類似した行動を取る
可能性が高い。
自分が
その日まで
元気ならば、
の話ではあるが。
"備えあれば憂いなし"
・・ではないと思う。
備えあっても
・・憂いは生じてしまう。
では、そんな"憂い"をできる限り
小さくするためにはどうしたらよいか。
現在の私の考えではさきほど
披露した"おとぎ話"に似たような
"実践"(行動)をする"予定"である。
少なくともこの
"予定"は
"未定"にはならない。
必ず実践する"レジュメ"(概要)である。
つまりこの"計画"は私の
"企画書"である。
書籍(フィクション)はそんな
対策を練り行動を起こすための
よいきっかけになってくれた。
どうか
小説におつきあいして下さった
方・・
私個人的な
"備忘録"となってしまった
ことをお許し願いたい。
※※南海トラフ地震とは?
南海トラフは日本列島が位置する
大陸のプレートの直下に
海洋プレートのフィリピン海プレートが
南側から年間数センチの割合で沈み込んでいる場所とされる。
その沈み込みに伴い2つのプレートの境界には"歪み"が蓄積されゆく。
過去1400年間を見れば南海トラフでは
約100-200年周期の間隔で蓄積された
その"歪み"を解放する大地震が発生しており、
近年では・・
昭和東南海地震(1944年)、
昭和南海地震(1946年)がこれに該当する。
その2つの地震が起きてから
70余年近くが経過しており、
南海トラフにおける次の
大地震発生の可能性が極めて高まってきている。
過去に南海トラフで起きた大地震は多様性があった。
それ故に次の発生する地震の
震源域の広がりを正確に予測することは現時点の
科学的知見では困難が生じている。
政府顧問の地震調査委員会は
南海トラフをこれまでのような
南海と東南海領域という区分をせず
南海トラフ全体を1つの領域として考慮し
大局的に100-200年周期で繰り返し大地震が起きていると仮定し、
地震発生の可能性を評価している。
将来の地震発生可能性
地震の規模 : M8-M9規模
地震発生確率: 2050年迄の30年以内"80"%(2019年以降70%を80%とした)
地震後経過率: 0.85(1.0を超過すると平均活動間隔の年数を既に経過)
平均発生間隔: 88.2年
++++++++++++++++++++++
https://www.youtube.com/watch?v=qc35yer2GqM
【書評】"私が見た未来"完全版
私事で恐縮であるが
私は"スピリチュアル"な
タイプの人間ではない。
そんな筈の私が
こんなにも
この書籍を
真面目に真摯に
受け止めている。
まず冒頭でお伝えするが、
本書の核心となる内容の
詳細を述べない。
今後も本書は増刷の可能性
の或る著書であると判断でき、
読者数がさらに増えると判断できる。
またすでに
他の多くのメディアで本書の具体的な
内容は簡単に誰でも掌握できるとも思い、
本書中で書かれている
"キーワード"もまた
可能な限り引用は
避けるように努めたい。
そもそも私は
"シックス・センス"(第六感)という
"感性"=感覚も一般の方より
かなり劣っているのでは?
とさえ思う。
尚且つ私は
神秘主義者でも
オカルト信仰者でもない。
私は易(占い)のたぐいや、
守護霊だの背後霊だのも
一切信じない。
そういうことを
すぐに口に出す人間もまた
信用できない。
悪いけれども
あの世だの守護霊だのと
よく謂うひとにたいしては、
頭が少し可笑しいひとなのでは?
ととっさに思ってしまう程である。
信じないと
いういうより・・
信じたいのに、
信じられない。
これもまた
私事で恐縮であるが、
人生において、
友人二人を
亡くしている。
いつもその二人の事を慕っているし、
いつだって逢いたいそう願っている。
しかしながら
私がこの世で生きている
限り絶対に"逢えない"ものなのか、
私が死んでも会えないものなのか、
どんなに祈っても願ってもいくら待ち望んで
いたからといって"彼等"と接触し
逢瀬出来たことなど一度もない。
ただ最近になって
年老いてきたせいなのか、
夢にその"二人"が現れることが
生じてきた。
こうした場合
"スピリチュアル"なタイプ
の人間であれば、
そろそろ"ふたり"が
"お迎え"にきてくれてるのだと
そう判断すればよいのだろうか。
しかしながら
他人からの評価でもかなりの
"リアリスト"だと皮肉られる
ことさえある私にとって
夢というのはやはり、
"予知"でも"正夢"でもなく
ただ自分の"潜在願望が叶えられない"ばかりだから、
無意識に夢で具現化されているものに
過ぎないのだという
考えにいたっている。
"ひと"は皆死ねば
"あの世"など一切存在せず、
この国"日本"では火葬され焼かれ、
二酸化炭素になって炭素という元素で地球という
物質世界中に"ばらまかれる"だけにしか
過ぎない存在なのだと認識している。
"二人"の友人以外にも
縁のあった"故人"とは
誰ひとりとして、
逢瀬できた試しも
そんなチャンスもなかった。
つまり"あの世"をまるで実感できないし、
"立証"できるだけの経験に不足があり、
やはり私にとっては
"事実無根の世界"といえそうだ。
そんな人間ではあるが、
たとえば青森県の"イタコ”に
よる"口よせ"は機会があったら
是非"体験"してみたいと思っている。
詳細は後述するが、急がないと
"イタコ"は"絶滅"に瀕している状態だ。
しかし実年齢を重ねてゆくと、
どうしても釈然とせず腑に落ちない、
非現実的な不思議な
体験や経験が少なからず生じる。
折角なので私の体験の
幾つかをご紹介したい。
ひとつは
"ムシの知らせ"というものである。
あれはどう考えても"おかしい"。
隣に住んでいた幼なじみの男性で
本当に何十年ぶりかに連絡(電話)があった。
たいした理由はなかった。私は本当に
嬉しくなって近いうちに必ず会おうと
電話口で約束をした。
しかし翌日、
水難事故で還らぬひとなった。
私に特殊な能力が備わっているとは考え難い。
つまり"彼"は
自分の死を予知していたと
しか考えられない。
"自死"であればなんとなく
挨拶でもしておこうかと
思うこともかも知れないが、
不慮の事故が次の日に起こるから"挨拶"して
おこうというのは、
リアリストにとって理解の
範疇を大幅に超えていた体験であった。
当然ながら"彼"と私との
あの時の"再会の約束"は未だに果たせてはいない。
他には本当に何十年経っても
未だに信じられないような"存在"を
垣間見た経験がある。
(当時の時刻を合わせ、
現場取材=現場の写真の撮影をしようと考えたが、
少し怖くなった?のか
Googleマップによる日中の現在の写真を掲載しお話したい)
それも私だけでなく
他者も同時に
"目撃"した。
ひとつめの"出来事"は
私の住む隣町の北部にある
工場地帯の産業道路での体験がある。
私と友人は私が運転し自走する車内にいた。
工場の深夜勤に向かう通勤の途中であった。
"あの場所"は当時酷く寂れた
産業道路で街灯も店も少なく
交通量もさほど多くなかった。
殆ど残っていない道路となっている)
時刻は深夜零時の少し前であった。
"現場"の道路は一方通行となり
進入禁止となっていた!!
目前のおよそ7メートル程先の
車道の左側の暗闇から忽然と
"その姿"は現れた。
"進入禁止"の標識が見える。
この進入禁止の道路の奥が"現場"である)
この世のものとは思えないほどに
うら若き"美しい女性"の姿であった。
"突入"した画像。取材で実際クルマを走らせれば、
道路交通法違反となり事故も生じるほどの狭さ。
つまり現在この道路は北から南への
一方通行となっており、当時のようには"この景色”を
車内で見ることは不可能である。
"彼女"はどんなクルマの
ヘッドライトよりも
強く"発光"していた。
画像をワンクリックしたあとの、
道路を先に進んだ画像である!
マップの季節が変化したをお気づきだろうか!
驚いたのはグーグルのマップ画像は同じ時期に撮影されていない。
(2021年12月時点)
同じ道路であるが突然、
雪がある冬の撮影となっており、
大変珍しい地図画像である。
面影などわからない。しかし髪は
長くドレスなのかワンピースなのか
明らかに20代の
"美しい女性像"=シルエットだった。
そして"彼女"は
限りなく透明に近く
"蒼白"色であった。
そして"彼女"の背丈は
"にんげんのオトナ"の
腰の高さもない
均整のとれた
それはまるで
"こびと"みたいな
ひとだった。
"彼女"は"足早"に
道路を横断しようとしていた。
立地は当時のままである。
間違いない。この付近のこの画像の目の前を
"彼女"は横断した!
道路を横切る速さは、
"小さい身体"なのに
相当に速かった。
なんだか"息急"(せきいそ)いで
いる風だった。
私たちは、
その美しさに
言葉を失った。
"彼女"に
"釘付け"になっていた。
反対車線のセダンの
ヘッドライトが
"彼女"に迫った。
その車は"彼女"を認識し
急ブレーキを踏んだ。
間に合わない!・・
"彼女"を轢いてしまう!
・・と咄嗟に見えた。
しかし我々が見たものは・・
"彼女の半身"はその
クルマのボンネットを
"貫通"した。
対向車のセダンのボンネットの上を
"彼女"は"首の上"だけを
見せ下半身は透過しながら・・
何事もなかったかのように
そのまま右側反対車線にある
水田の深い暗闇へ
急ぎ足で入り込むと"消滅"した。
その一部始終を
見終えた私たちには
"沈黙"だけが続いた。
・・恐怖はなかった。
私は何事もなかったかのように
静かに運転していた。
口火を切ったのは
助手席に座っていた、
友人からだった。
"・・いまのみたか?"
"・・ああ"。
"この世のものとは・・思えない”
助手席の友人は小さく
独り言のようなことばを吐いた。
通勤中での会話は
途切れてしまった。
常軌を逸したこの世のものとは
思えないような美しい女性の
"姿"を"私たち"は見ていた。
対向車の者も、
つまり複数の人間達が同時に。
その体験の後日談があった。
"その場所"の
地区で生まれ育った
友人の話になぜか妙に
納得してしまうそんな
"いきさつ"があった。
何年も前の話だが、
"彼女"が消失した、
その"水田"で27歳の
若い女性が"失恋"を苦に
焼身自殺した事は地元では
かなり有名な事実であると。
"私たち"にはまるで無関心で、
この世のものとは思えない、
"あの姿"はまるで宇宙・・・
いや地球上で消滅したとされ
存在し得ないとされる・・・
"反物質"さえ彷彿されるようなあの
美しい成熟した女性のシルエット。
あの足早に通り過ぎた"彼女"と
友人の話す痛恨の末に自死し
亡くなった"女性"が私の心の奥で
"完全に同じ人物"である
・・とそれは
まるで根拠などまったくない筈なのに、
自分の心の奥から生じてくる"確信"の
ようなものにリアリストである私は暫く
"頭を抱え込む"こととなった。
今でも思い出してしまう、
そんななかなか忘れられない
体験のひとつとなっている。
【編集後記】後年、数百回と
その道を車で走行しているが
再び"彼女"に遭遇したことは一度もない。
さらに今回の記事で驚いた"新事実"があった。
その付近の道路構成は大幅に変更され、
なんと!絶対に当時の角度からクルマでの
走行は禁止(進入禁止)、同じ条件下で
道路を走行することが不可能になっていたのである!
私はそのことに気がつかず、"違う角度”で長年"現場"を
通過していただけに過ぎなかった!
以下↓の現在の写真(Google)画像が顕著である。Y字になっている
道路の左側の道路が当時の道路。Y字の右側が新しく造られた車道である。
つまりいつしか・・同条件下で走行することは完全に不可能になっていた。
道路を走行できなくなっていた。
次の体験もまた、
私が自走する車内での出来事だった。
"O霊園"という巨大な墓地の
フェンスの裏側に永い
"林道"があった。
今もあるかもしれない。
【編集後記】現代は情報収集が進化し
実際に足を使わなくとも、web上である程度
道路や地形を把握することができる。
2021年現在、都市開発があったのか、
当時の"林道”は完全に消滅し、霊園の脇の
道路は全て舗装され当時とは異なっていた。
"若い男女"は夜のドライブの暇つぶしに、
"悪ふざけ"して"肝試し"でもするかのように
真夜中にその暗闇の林道を車で入った。
つまり私と当時深い関係で
あった助手席にいた女性の
ふたりは恐ろしい体験をした。
街灯は皆無で獣道に相当する程の
悪路であり険道だった。
ゆっくり走行しないと
道は土であったが、
至る所に窪みとかなり大きな石があり、
タイアがバーストする恐れがある程だった。
Uターンする場所も全くなかった。
両脇は草木で覆われて
おり、ヘッドライトは
常にハイビームにしながら暗闇を
数百メートル走行した頃だった。
林道目前の
7メートル付近に何か障害物の
ようなものが
立ち塞がっていた。
ライトをパッシングしてみるが
"理性"はその正体を把握できない。
何かが明らかに
"そびえ立って”いた。
目の前の存在が何であるか既に
理解できている筈だが
"意識"が認識
するのを拒んでいるかのようだった。
ゆっくり
自家用車を前進し
その障害物を注視した。
その瞬間、助手席の"彼女"は
深刻なパニック状態に陥った。
その恐怖は私にも伝搬された。
その瞬間、目の前に立ちはだかる
"実体"が果たして
何であるかを私は完全に認識した。
それは
黒と金色で装飾され
観音開きされた、
巨大な"仏壇"であった。
そして・・
位牌と遺影の白黒写真さえ見えた。
理性が破綻しかけていた。
絶対にあり得ないものを見ていた。
経験値では計り知れない、
"緊急事態”が生じていた。
待ち構えていた
相手が現れ斧を振り回そうと、
隣にいる"女"("彼女")だけは
助けなければならなかった。
逃げるかそれとも闘うのか・・。
"Fight or Flight"の
瞬時の選択肢が即座に要求されていた。
"車外に出ること"は
"車内にいる現状"より
立場を悪化させる可能性が
きわめて高いと瞬時に判断した。
車内にいればクルマを操縦し、
相手をひき殺す
ことももしかすれば可能な筈だ。
"轢くぞ!!!"
私は叫んだ!
"やめて!!!"
"彼女"の絶叫が
私は仏壇そのものを
"なぎ倒す"ことを中止させた。
そして"逃げる"="Flight"を選択した。
ギアをバック(R)に入れ、
フルアクセルでもと来た林道である
"獣道"を後退した。
一度樹木に車側面が擦れたが、
林道入り口まで"逃げ切った"。
追っ手は来なかった。
【編集後記】
あの物体=実体は果たして何だったのだろう。
当時、落ち着いてから"彼女"に心境を尋ねた。
この世のものでも、
あの世のものでも関係なく、
兎に角、自分が過ちを犯し、
そして自分が殺されるとそう
咄嗟に感じたたそうである。
真夜中ので霊園
の真裏の林道で
想像すらできない巨大な
"仏壇"を目の当たりに遭遇したら、
誰だって恐怖に陥り、
そんな風に思っても不思議ではないと思えた。
当時の二人(つまり男女)は
深い部分で感じ方が一緒で、
そんな幻視を同時に見たのだろうか。
しかしそうした幻視(幻覚)に関して、
医学的に釈明できるのだろうか。
数十年前の出来事で私のことなんかはとっくに
"彼女"は忘れてしまっているかもしれないが、
あの出来事はきっと忘れてはいないだろう。
それほどに私にとっても
恐ろしい体験であった。
【編集後記】
あるスピリチュアルの高い方にその体験談を話した折、
"わたしたちがみた"あの仏壇は実は葬儀場の"祭壇"
だったのではと言われたことがあった。しかしあれは
絶対に祭壇ではなかった。間違いなく巨大な"仏壇"が
暗闇の林道にそびえ立っていたのである。
そうした私の体験をある意味論理的に
説明して下さっている文がweb上にあり、
幾分と横道に逸れてしまうかも知れないが、
よい話なので是非掲載させて頂きたい。
"霊はあるか"などの著書のある、
放射線防護学が専門の
"安斎育郎"氏(立命館大学名誉教授)は、
+++++++++++++++++++++++++++++++++
「計算してみたんですが、
人間のカラダの18%は炭素でできている。
では、この私の体が完全燃焼して二酸化炭素になり、
地球上に均一に広がったらどうなるか。
地球上のどこでも、
網走番外地でもアマゾンの奥地でも、
大気中には1リットルあたり11万個以上も、
かつての私の一部だった炭素原子が含まれる計算になるんです。
世界中でこれが光合成を通じて草となり、
動物が食べて肉となる。
それを我々、人間が飲み食いする。
地球ができたころから、
この星の炭素原子は増えても減ってもいないのだから、
我々のなかにも、
ある時代には徳川家康で、
ある時代にはミミズだった部分があるかもしれない。
地球は偉大なリサイクル工場です。
これを輪廻転生と言わずして、何というのでしょう」
+++++++++++++++++++++++++++++++++
リアリストである私にとって
"安斎教授"にとってはその事実を
"輪廻転生"とおっしゃっているが
いざ、本当にあの世や霊は実在するか否かとなると、
論より証拠が科学根拠として
ないと思ってしまうのだった。
私は常に願望と実情(リアル)を
切り分けて判断したり行動したり
思考している筈なのに、
本書の購入は
今回で"2冊目"となる。
"1冊目"は大事な地元の先輩(男性=私よりは
遙かにスピリチュアルだと思える方)に
近々差しあげる予定となっている。
(2021年12月11日に手渡しすることができた)
今後も・・
個人的には
本書の購入はもっともっと増えて
ゆくかもしれない。
・・・・。
なぜ私は"そんな事"に
"拘ってしまっている"のだろう。
その答えは
自分自身が
"矛盾した存在"であることに
気がついてしまったことにあった。
私は実年齢を重ね
年月を重ねてゆく課程の中で
"リアル"を優先し追求してきたつもりが・・
どうやらそうした解釈や生き方に
無理が生じてきているようなのだ。
つまり私は
"混乱"していた。
本書を通じ
改めて実感したこと・・
それは私のようなにんげんも、
実存する筈もない"あの世"に
いる友人に私はいつだって"逢いたい"と
そう心の底から
"祈り続け願って毎日を生きてきた"
つまりその"紛れもない事実を再確認"したことだ。
つまり"リアリスト"である筈の
私にとってそんな
"祈りや願い"そのものが
完全に"矛盾"して筈なのにだった。
私の"矛盾"に本書が
"とどめを刺した"。
本書の内容は
誰にでもとても
読みやすい内容である。
難解な文字の羅列で
引用文ばかりの"研究書"でもない。
当サイトの読者の方で
ご承知の方もすでに大勢いらっしゃる
かと思うが私は
"Sherman"(シャーマン)という
ベルギー製の極めて特殊な
音響機材を考察(記事に)してゆく上で
現代のシャーマニズムにおける
世界のシャーマン(呪術・霊媒師・預言者)における
研究を今年の夏あたりから調査し始めていた。
また個人的にYahoo!のオークションでは
出品者として20年以上の
ある意味"古参株"でもある。
日本の"とある漫画"が
尋常ならざる異常な高値で落札されていると
いう奇妙な現象を知っていた。
YouTube上での【私が見た未来】の火付け役となった。
それが"本書の初版本"であった。
本書の入札価格はおよそ
興味本位で購入できるような値段ではなかった。
1冊の古い漫画が
10万円以上で落札されていった。
シャーマン研究の
情報収集においての
時期=タイミングが
同期=リンクしていたためか、
WEB上では何度も何十回と本書の完全版の
リリース(再販)という情報に
"ぶち当たる"ことが増えていった。
今年(2021年)相次いで
民放メディアにて
本書が紹介されたのは既に
ご周知のことであろう。
(フジテレビ"めざましテレビ"<10/27放送>
TBS"THE TIME"<10/21放送>
TBS"週刊さんまとマツコ"<7/4放送>etc..)
さらに
"YouTube"上では
きわめて優秀な
"スピーカー"=論客(ろんきゃく)達が
本作である【完全版】を持論を交えながら
独自映像を展開し多くの
リスナーに評価されることとなった。
その再生回数はあるチャンネルでは
既に百万数に及ぶUpload動画も存在する。
本書は2021年の日本で
もっとも問題作となった
書籍であることはまず
間違いないだろう。
この【完全版】は
新刊でもあるが故、
大変安価であるから私も
迷わず購入するに至った。
結論としては私にとって
シャーマニズム研究しいては、
現代のシャーマンを知る上でも
本書はこの上ない貴重な書の一冊となった。
本書の完全版が発行されるまでに
様々な"いきさつ"があったことも
多くの皆さんにとって既に
ご周知の方も多いだろう。
著者"たつき諒"の"なりすまし"事件(といっても
親告罪で民事であるからたいした罪にもならず
出版社にとっては結果商業的利益を生むこととなった)
しかしながら私にとっては、
"なりすまし犯人"(犯人と呼んでよいのものか・・)
"彼"(もしくは"彼女")が熱心な"たつき諒"の
崇拝者であろうとなかろうと、出版社サイドの
巧妙な再販および販促(PR)戦略であろうと
個人的には知ったことではない。
"10万円"ではさすがに
手に入れることを
断念せざるを得ない
【初版本】であったが、
内容そのもの自体も大幅に
"進化"された【完全版】が
こうして周知の目にとまり、
この私さえ手にし内容を得ることができた
ことはとても大変ありがたいことである。
"筆者なりすまし"による決死?の
ネットを通じた"啓蒙活動"が功を奏し
初版の再販を促し新書として"完全版"を誕生させ、
多くの者が既読出来る運びとなった。
【私が見た未来】の著者である、
"たつき諒"はシャーマニズムを研究していた
私にとって紛れもない現代21世紀(2021年)を
我々とともに生きる"シャーマン"である。
日本のシャーマンといえば
なにせ最も著名なの人物は
まずはなんといっても
"卑弥呼"であろう。
しかしながら
"卑弥呼"は
日本人の誰もがその名を知っている
人物でありながらも史上
伝説世界の巫女(シャーマン)である。
"卑弥呼"に関しては本当のところ
実は何人(なんびと)もよくは分かっていないが、
生粋のシャーマンであったという説は有力である。
夫は持たず神に仕える
巫女であったとされる。
当時の邪馬台国は
まず論理的な統治による政治は行われておらず
(日本にはまだ牛も馬もおらず、
民は皆"裸足"であったとされる)
卑弥呼は"鬼道(きどう)"と呼ばれる呪術によって
"神"=天からの"お告げ"を傍受することで
国を治めていたようである。
"卑弥呼"実年齢25歳頃、
つまり2世紀の後半に
倭国つまり日本の一部では
大きな戦乱が生じていたとされる。
当時の邪馬台国は
大小30カ国ほどの国々が闘争し、
"卑弥呼"が女王として君臨した事により
戦乱は鎮圧されたとされる。
それが史実とすれば
この女性は"只者"ではない。
魏志倭人伝には卑弥呼は"年すでに長大"とあり
"卑弥呼"の推定年齢は当時25歳前後とされる。
これはあくまで
私個人的な推察となるが、
卑弥呼の場合は"鬼道"という
呪術によって忘我状態に陥りその主目的は、
未来を予見(予知)していたのではないか?
つまり"予知能力だけ(のみ)"がきわめて高かった。
予知(予言)が際だって優れていた。
その的中率に"凄味"があったのではないだろうか?
的中された"その予言"は完全に
避けることは困難("的中"であるが故)であるが、
予知はひとの"知恵"によって被害や災害(戦乱)を
最小限に抑える努力と工夫ができる。
他の天変地異(卑弥呼死亡時期における自然界での"日食")における
自然界そのものの抑制能力はおそらくなく、
死因は定まってはいないが、殺害されたか、
自死したか、もしくは"陰部"に大怪我をし、
"事故死"したかいまだ定かではないものの、
"予知能力"はおそらく他者を圧倒していた。
"佐原真”が倭国の実態に迫る名著である。
完成に強い意志を持ちながらも病に倒れた著者の,
最新にして最後の到達点である。
卑弥呼の顔立ちなど、飾らない文章で清々しく、傑作である。
古今を踏まえ、世界中のシャーマン達は、
トランス状態(我忘="ぼうが"状態)までの
プロセス=課程における儀式は様々である。
現代でも一部の大陸では、
哺乳動物の生血と強烈な
アルコール度数の"ウォッカ"で割った飲料を
体内に入れることでシャーマンは
"忘我状態"=トランス状態になる者もいれば、
日本の恐山のイタコ達のように厳しい修行と
"経文を呟く"だけでトランス状態に
陥るなど様態は様々である。
(日本の青森県の"イタコ"の継承は既に
枯化している。現役最年少は松田広子で
あるが"彼女"は1972年生まれの
来年50代になる生粋のシャーマンのひとりである)
【私が見た未来】と同様に貴重な書籍となった。
本書の著者である
"たつき諒"の場合はどうか。
その"予言"は無理矢理に
"呪術の課程を踏むこと"は必要とせず、
睡眠中に至って"自然体"に"忘我"が生じ
"去来"する。
それが医学的に
"ノン・レム"中か
"レム"のまっただ中なのかは
理解できないものの、
その事自体は
さして意味もないことだろう。
"たつき諒"の
"予知夢"の場合は、
個人の意志とは全く
関係ないという面が、
他の世界中の職務(役職)として全うしている
シャーマンとの顕著な差異である。
現代では枯化し"継承者不在"の青森県
恐山の生粋のイタコ達のように"経文を呟き"
背中が異常に温かくなって・・猛烈な睡魔に
襲われ・・トランス状態に陥る訳でもない。
(因みに"イタコ"と呼ばれる日本のシャーマンの
真骨頂は"降霊"
であり"予知能力"※はない)
※イタコの場合は心理カウンセラー的な役目(職務)があり、
易(占い)をし、病気を治すことも多々あるが、
シャーマンとして際立っているのは
"降霊"術である。
また"イタコ"の場合は
忘我状態での"口よせ"においての
内容詳細のその殆どを記憶しない。
"たつき諒"とは
明らかな相違がある。
"彼女"即ち"たつき諒"は
世界のシャーマン達とは決定的な違い、
それは"実感"し重要であると感じた"夢"を
克明に画像としてイメージを描き、
かつ"明文化"してきたことに尽きる。
さらに"彼女"="たつき諒"の場合、
顕著なのは"時間と日付"がある。
シャーマニズム研究上で、
このようなひとはおよそ希少であった。
卑弥呼は"鬼道"を駆使し
"忘我"し世相を予見したが、
"筆者は何一つとしてそうした呪術を使用していない"
ように見受けられる。
これは私の推論だが、
"彼女"="たつき諒"はシャーマンという前に
"漫画家"という凡庸(平凡)な職業に身を置いて
はいなかった。
つまり
"缶詰"(本書でもその話が述べられている)
と呼ばれるほどに時間制限(〆)に
極めて敏感にならざるを得ない職種(職業)
に永年とその身が縛られてきた。
多くの大家(漫画家)が体調を崩し
連載継続していた漫画が中断され、
完結していないことからもいかに
漫画家という職業がタイトで厳しくも
過酷な仕事であるということは自明であろう。
また著者はもともと
"律儀なタイプ方"というか、
時間にルーズなタイプのひとでは
ないのだろう。
元々平凡に過ごしている一般人と比較しても、
カレンダーに見えた日付や時刻などにも普段から
極めて敏感なタイプの人物なのではないだろうか。
それはつまり顕著な事実としては
職業作家、つまり
"漫画家"であったからだ。
そんな"彼女"に"特異能力"があった。
日付や時刻に敏感な"彼女"に"予知夢"が
付加されたのだ。
(3.11の大災害において
その初版本〆切日の夢が顕著である=過剰な抑圧
された心的な葛藤やストレス状態が
鋭敏に反応した"予知能力”が
"その年と月"="2011年3月"という"年月"の刻印を
重要視し明白化された)
"彼女"は人生において、
就寝中にシャーマン特有の忘我状態に陥り、
自分の意思とは関係なくとある夢を観てきた。
本書である
【完全版】を購入する前には、
私のリスペクトする偉大な
"フレディー・マーキュリー"の
死を既に1976年で夢見ていたという
のは私にとって極めて
興味と関心であった。
それが事実であれば
"時空"を完全に超越している。
また"ダイアナ"妃に関するイラストも極めて興味深い。
これは"ねつ造"画像なのでは?!と思うほどに凄味がある。
○で囲まれて書かれた・・"クルマ"(漢字)という文字・・・
是非とも、まだ未読の方はご覧になって欲しい。
もしもこうした
著者の"夢日記"の数々があらゆる点において
"捏造"でないものであったとしたら、
"たつき諒"は私にとって、
現代を生きる紛れもなき
"卑弥呼”であるといって
過言ではない。
しかしながら"彼女"="たつき諒"は
卑弥呼のように呪術を用いて世相を占わない。
また"たつき諒"は
グローバルな気質というか、
"たつき諒"の日本国内だけに留まらない
その世界観は見逃せない。
"彼女"は時に
"天空"からでさえ
地球の映像を見るのだ!!
このレビューは
実は"校正"していない。
"あなた"にとって
もしかして要領を得ない、
雑文となってしまっていたら
どうかお詫びしたい。
本書である【私が見た未来】完全版の
"中核"を成す箇所は"ズバリ"本書41頁から
91頁の黒枠で形成される箇所である。
この箇所において、
私が咄嗟に感じたこと、
それは著者である"たつき諒"の
紛れもなき"遺書"であるのだと
直感的に受け止めるに至った。
その項目の中において著者は
ひと同士の"和協"や"奇跡"に
ついても触れている。
あえて詳細は伏せさせて
頂くが、私にとってその内容は
大いに共感できる箇所であった。
しかしながら、
私のような凡人とは違い、
"たつき諒"の
"役目が終わった"からといって・・
今を生きる"卑弥呼"を
簡単に死なせては決してならない。
著者は"Yokohama”在住である。
私も似たような近い場所で暮らしている。
しかしながら
いつの時代も真の"預言者"は
潔い(いさぎよい)生涯を
全うしようとするのか?
余談になるが、
出版社へあくまでいち読者の
少しばかり苦言と
願いも申し上げたい。
まず"書籍"自体の
紙品質がまことに貧相である。
私は臭いに敏感な人間ではないが、
兎に角"紙とインク"臭が
粗悪で本当にひどく匂う。
サブ・カルチャー誌や
読み棄てタイプのムック誌などに
よくみられる粗悪な紙質と印字レベルで
せっかくの"カラーでの
夢日記の内容"を
台無しにしてはいないか。
私は古いタイプの人間ではある。
大事な本や情報は
紙媒体でないと読まない(読めない)し、
WEB上でのコンテンツでさえ
大事なものは全て一度印刷し
"紙媒体"にした上で精読する。
つまりは書との
"一期一会"的な
人生での出会を
大事にしている。
"ザッピング"(zapping)的な
可能性、それはつまり
貴重な情報に間違いなく接しているのに
その真骨頂の内容がどんどん"揮発"してゆき、
結局は意識に何ひとつとして残らないことを
私は酷く畏れる。
そんな現代にとって化石のような人間が、
今回珍しく本書は"電子書籍”で読んだら
よかったのでは?と思うほどに
貧相な印字精度で
落胆しているのだ。
いくら拡大鏡を使っても、
"見落とし"が生じているのでは?!と感じる程に
印刷精度(フォーカス)が弱い。
出版社としてその事実に関してどうお考えだろうか。
出版社には余剰返しの
赦す限りでよいから少々
値段の張った
ハードカバー版でしっかりとした
製本と印字の本書籍を別に発行して
頂けたらよいのではとも個人的には願っている。
それからこれは
読後のひとりの
いち読者の願いであるが、
2025年7月5日の
"南海トラフ"大地震※(詳細後述)の
予知においては、決してこの
"日本だけの問題ではない"。
フィリピンや台湾にも
甚大な被害が生じるだろう。
今後は日本からの"警鐘"本として外国翻訳し、
出版ルートを確保し海外での出版はできないものか?
フィリピンの公用語はタガログ語と英語であるが、
日本人と比較すれば多くの多言語が理解できる筈だ。
台湾の場合はかなりの高齢者を除いては日本語は厳しく
中国語系"北京語"と難易度は高いがどうにか
"トランスファー"=翻訳された本書が
他のアジアン諸国でも流通され
融通できるようには果たしてできないものか?
"飛鳥新社"である
御社が本書にたいして本当に
"本気"ならの話であるが。
そもそも著者の
"なりすまし"は
ふと誰だったっけか??
そういえば
そんなことは
"知った事ではない
と述べた私ではあったが・・
是非とも出版社には頑張って
いただけたらとエールを送ります。