両眼手術-“レーシック”-“PRK”手術後の1週間の”全記録”-鮮烈な”夢の体験”-“夢分析”する!!
【お詫び】
まずは私から"お詫び"をしなくてはなりません。
人体の"眼"の手術並びに~術後の経過の記事においては,
すべて"日・英"語の即ち2カ国語で連載する予定でした。
外国の方で"日本語"に精通し造詣の深い方であれば
"誤解"はないものとは思っておりました。
しかし今回の記事では私のつたない"英語力"では"問題"の起きやすい
箇所が生じてしまいました。
"嘘偽りない"事をお伝えする上ではひとつは宗教上
"絶対的な存在"にたいして"夢の中の話"で比喩的に
""引きあい"として表現している箇所があります。
夢の中の私は必死で"彼"を説得する為に
"絶対的な存在"を用いて発言しました。私にとっては
その部分を"割愛"して記事にする事は出来ませんでした。
日本語での話の流れを汲んで頂ける方であればまず
"誤解"はない筈ですが,英語表現することでこうした
"箇所"はとても"誤解"の起きる可能性があり得ます。
ひとつは"宗教"そして"民族"そして"戦争"などにおいてです。
また,別の夢の内容で私は
"太平洋戦争"の話をしています。
日本語を積極的に汲んでくださる外国の方(特にアジア諸国の方々)
であれば問題ない部分かと存じますが"英語表記"した場合は
私の"持論"は"日本人"としてやや"慎む"点があるかもしれません。
フィリピン・マレーシア・台湾・中国・その他のアジア近隣諸国の
方々に英語にて発信すれば私の発言は非難されても
おかしくはない"点"が生じると考えました。
他国のアジアン諸国の方々の多くは,
私たち日本人よりも遙かに"英語"力があり堪能でおられます。
従って"英語"表現を今回の記事は掲載する事を断念いたしました。
【Apology】
When "Apology" is not first done, it doesn't become it.
"Japanese-English" word, operation and - scheduled to serialize it
by two languages all of "Eyes" of the human body in the article on passage after the operation.
It's not thought that there is "Misunderstanding" when it is well versed in "Japanese" in the foreign country and attainments are deep.
However, in this article, the part where the misunderstanding occurred easily was caused in my poor "English language skill".
In telling "Lie spuriousness" thing, one has the part where "Absolute existence" on the religion is expressed in "Inquiry "=comparison" in the metaphor by "Story in the dream".
To persuade "He" desperately, I in the dream used and made remarks on "Absolute existence".
There can be a possibility that" the misunderstanding" cuts such part "a "if English is written it is to be able to get it by drawing the flow of the story in Japanese though there must not be "Misunderstanding". One is "Religion", "Race", and past "War"......
Moreover, the story of "Pacific War" is told in another dream content.
It's thought it is unquestionable if it is a foreign country (especially, people in Asian nations)
that positively draws Japanese and when "English mark" is done, my "Opinion" might have a little "Forbear" point as "Japanese".
It thought my remark for the possibility to exist when "Point" not amusing was caused even if criticized if it sent it to Philippines Malaysia, Taiwan, China, and the people in other neighboring countries in Asia in English.
The people in Asian nations of another country have "English" power more far we than Japanese and exist skilled.
Therefore, "English" expression decided to be abandoned
and to abandon the published thing by this article.
【ご挨拶】
本記事は目の手術である
"レーシック"や"PRK"手術の個人的な体験をまとめたものであり
"安易な治療を推奨するもの"ではありません。
また"PRK"術後の経過において本記事内では詳細を述べていますが,
現在の日本での"PRK"手術を否定するものでもありません。
本記事に関連する主旨は前回の
”その衝撃的な”体験”は”アデル”が歌う
”Skyfall”そのものであった!両眼手術-“レーシック”-“PRK”手術-全ての体験談!"の続編として"踏襲"しています。
"体験段"はあまりにも長文になった為に
別記事にしました事をご了承ください。
私はひとりの"当事者"として"PRK"手術の体験の
全容"真実"を述べてゆきます。
"日本人の体験談"としては情報量としては"最大"となるでしょう。
しかし手術ならびに術後の経過においては誰もが"その状態"や症状は
著しく異なる(常に人体は"動的"で或り続けている)と私は考えています。手術後の"経過"においては間違いなく"あなた"とは違う筈です,
記事は"私個人"の身に起きた結果です。
先述の手術記事でもお伝えしましたが,
私は変わりました。
他人は気付いてくれませんが,
親しいひとは"私自身"の変化に気付いてくれているようです。
これから眼の手術を予定している方,並びに手術を希望している方,
そして,身体の美容や健康やメンタリティにおいてとても強い関心のある方々にとって,私の個人的体験談が将来何かのほんの一助になり参考になれたらと願っています。
実体験を通じてとても印象に残っている事は
私は療養中,多くのリアルな"夢"をたくさん観た事です。
就寝中の夢など"リアリスト"な私にとっては
何の意味もなかった人間でしたが,短い期間のうちに
"一生忘れる事の出来ない夢"に何度も遭遇しました。
そのうちの3つの夢は特に現実に生きている私に変化を与える程,衝撃的で影響力のあるものだったと思っています。
療養中というのもありましたが"夢"の内容を
出来るだけノートにメモを書き残す様にしていました。
"夢"の内容はは"別記事"で詳しく書く予定です。今後
是非併読して頂けると嬉しい限りです。
長年生きてきた私でも経験上あり得ない"事"が多々ありました。
多くの意味を踏まえ"驚く事"ばかりの連続の日々でした。
こんな私の"雑文"がほんの少しでもいつの日にか"あなた"にとって"有意義"になっていただけたらと祈ってやみません。
2020年,今世界は混迷状態です。
悪意はなくとも"間違った"="誤った"情報は幾らでもあります。
こうした混乱は,アジア人のひとりとして,日本人のひとりとして,
"本サイト"の私の"祈りや願い"とは明らかに相反します。いずれ
ワクチンが誕生しても遺伝子変異に依り無効になる可能性は非常に高い。
遺伝子の変異に応じた治療法とは何か?!世界中の医療の"英知"が日々闘争している状態です。国際戦略を推察するにあたってこの問題が日本人を含めた根強い"アジア人"差別にならぬ事を心から祈っています。
The world is being confused now in 2020...
"Differed at the time of whiling" ="Mistook it" information is how much even if not malicious.
Such a bewilderment ..one of the Asians.. obviously conflicts with "Invocation and wish" from me of "This site" as one of the Japanese.
It depends on the transgenic even if the vaccine is born and the possibility of becoming invalid is very high sooner or later.
What is the method of treatment corresponding to the mutation of the gene?!
"Wisdom" of a medical treatment all over the world struggles every day.The thing that this problem doesn't become deep-rooted "Asian" discrimination including the Japanese when an international strategy is guessed prays sincerely.
序文ではありますが,こうした世相をも踏まえた中で
私は両眼の手術を行いました。
術後の2週間をたった一言で表現するならば,痛みの中で
夢(幻想)と日常(現実)の"混沌"="カオス"というものを
"実体験"として経験したのだと感じています。
2020年4月末日
2020年【2月28日(金曜日)】午前,
私は無事に両眼の手術を終える事が出来ました。
手術を終えた当日の夜,
私は"有頂天"になっていました。
記念?に水性ペンで"絵"を描いたりする程でした。
とても稚拙な絵でしたが,
手術中の様子を描きました。
執刀医と患者である私との関連性や自分が見続けていた
"アンタレス恒星"と水中で"浮遊"している様な
非日常的な感覚をイメージしたかった。
"絵"にしたのはそんな
印象を視覚的に"レコード"=記録したかったのでしょう。
手術直後は視界は良くはなかったものの,
自分がまず"光りを失っていない"事だけで
単純にとても嬉しかったのです。
【2月29日(土曜日)】
4年周期の珍しい閏(うるう)年。
手術後1日目。
"右目の不調"を感じて朝7時前に目覚める。
すぐにベランダに出て屋外を観てみた。
"見える!"安心した。
すぐに点眼を開始する。
これから暫くの間は
処方された薬剤を3時間おきに一日5回,
点眼してゆかなくてはならない。
今日は"手術"翌日の診察日。
朝8時過ぎに出発した。
病院で貰った"保護メガネ"を
して外の道路を歩いていると,
目の前が別世界の様にとても美しかった!
なんだか"澄んだ真冬みたいな朝"みたいだった!
私は素直に感動していた。
2月28日の手術日とは違って,
何事もなく無事に予定通り病院=クリニックに到着する。
診察する前に"手術中の感想文=アンケート"の様な紙書類を貰った。
手書きで綴った。
最初は鮮明に文字がきちんと読めていたものの
途中から"ぼやけて=霞んで"きた。
最後の方はかなり汚い文字になってしまったと思う。
けれども"書面を通じて"自分の思った事を"素直に"書いた。
極めて優秀な"手術スタッフ"のチームにたいしてはとても
敬意を抱いており,感謝している事を文章で伝えた。
暫くリビングで待っていると,
検査技師が迎えに来て"裸眼による視力検査"を行った。
同時に眼圧も測定されていたと思われる。
実際の"体感"とはかなりの差異があった。
なんと!左右の視力は1.2~1.5をマークしていた!
驚いた。
そしてまず嬉しかった。
手術はやはり成功している?!
けれども近くの視力を測ると0.3前後だった。
あまり良く見えてはいなかった。
検査を終え,
再びリビングで待っていると
"主治医の診察がある"とスタッフが迎えにきてくれた。
前日の執刀医に依る
眼の内部をライトで照射され,
主治医(昨日の外科執刀医)の診察は終了した。
既に私の角膜の上の
"上皮細胞"は4.5割=45%が再生されてきているという。
主治医のそんな説明に私は驚いていた。
そんなに人間の眼の"組織細胞"は再生能力が高いのか!
例えば人間の脳の"可塑性"というものがあるが,それとは異質であろう。
また人間の肉体は3ヶ月弱で総て新細胞に置換される事実を
あなたはご存じだろうか?
肝臓も心臓の細胞も皮膚の細胞も数十日で総て生まれ変わっている。
けれどもヒトの肉体の
細胞はおおむね数十日から2.3ヶ月掛かるのが普通だ。
たった数日間で"免疫力"を上げるというのはどの"民族"も厳しいと思われる。
私はこの"角膜上皮"が再生または置換される"この猛烈なスピード”に
私は驚き,感動していた。
主治医には昨日の手術に関する感謝を伝え,
現在の私の"知覚=痛覚"にたいしての質問をした。
左目は手術前と術後を比べても"知覚"は同一であった。
左右の違いがあまりにも酷い。
つまり右目”だけ"がすごく痛むのである。
右目(ずっと悪かった方の右側の頭部全体覆う鈍痛)がかなり酷いと説明した。
しかし,経過は順調との事だった。
"痛覚"は左右違うとの事だった。
現時点ではあまり懸念する必要はなさそうだった。
普段通りの生活をしてよいが,あまり"集中して観るな"
と助言して下さった。
帰宅途中,
無理をして小田急江ノ島線の湘南台駅で前々から
行ってみたかった"鴨そば屋"へ行って"カモそば"を食ったら
とても旨かった。
この店の"主"は関東でも相当の腕前だなと感じた。何種類も鴨そばが選択
出来た。ほんとは"野生の鴨の肉のそば"が食べたかったが我慢した。
厨房はよく見えなかった。接客する女性の店員は明るくて凄く感じが良かった。変な自称"グルメマニア"みたいな1人の男性がやたらしつこく店員の女性に質問していた。"新潟のかも"が何故おいていないのか?・・などなど・・。通路をはさんで目の前に居たのでよく観察したが,テーブルマナーのない男だった。いつまでも自前の"鞄"をテーブルの上に置いたまま女性の定員に質問攻めしていた。"立ち食いそば屋"の味の違いは分かるのだろうか!?
どうせ"食べログ"のリーク屋か,
"おいしんぼ"かぶれのような方なのかなと思った。
4人家族は"どんぶりの鴨そば"を
私の真隣は大学生くらいの2人の女性が楽しそうに
"せいろ"を食べていた。
※また元気になったら"大事なひとを連れて"行きたいと思った。
"そば屋"の脇に大きな2階建ての100均(ダイソー)があったので疲れていたが無理をして立ち寄って"おもちゃみたいな老眼鏡"を生まれて初めて買ってみた。
※その時ば+2.0が合致すると思ったが,後日すぐ合わなくなって
その眼鏡は現在殆ど使用していない。
※一ヶ月以上経過後の現在は読書をする際,たまに使用したりしている。つまりまだ現在の私の眼は(特に中近距離)は常に不安定である。
主治医曰く.暫くの間は眼球が"ごろごろ"する様な違和感がある
とおっしゃっていた。
"ごろごろ"する程度なら自分は全く支障がない筈だ。
しかし後日,私の症状はこの日
"楽観視"していたよりも遙かに厳しく険しい苦悩と試練が
待ち受けているとは想像することも出来なかった。
帰宅後,
眼にあまり負担の掛からない程度に何かをしてみたいと思い,
プリンター周りのLanCableの結束のし直しをしてみた。
他に空き缶にラメ色のをテープを貼ったりして"遊んで"みた。
対象物があまり良く見えずに上手に貼り合わせが出来なかった。
若い頃の不器用な自分に戻っていた。
その日の夜23:00以降。
突然,気分が悪くなった。
言葉では説明し難い。
強い吐き気はさほどないものの右側頭部の"頭部"が苦しい。
このままベットに横たわると"気がおかしく"なりそうだ。
"バファリン"=鎮痛薬を2錠服薬してみた。
暫くの間,
起きていて様子を見てから寝ようと思う。
だんだん強い症状が起き始めていた。
そういえば,
気になっていた事があった。
夜のベランダに出てみた。
街灯や車のヘッドライトがとても大きく見えてまるで"新婦の綿帽子"みたいだった!※ハローグレア現象の典型的な"見え方"だった。
※光がにじんで拡大し,光源の周囲にリング状のもやがかかったように見える現象を"ハロー現象"、光がぎらついたり伸張し眩しく見える現象を"グレア現象"という。
"レーシック手術"は角膜の形状をレーザーで矯正することで視力回復を行う20世紀後半から現代の"医療的"手法であるが、ハローグレア現象は術後の角膜において光の屈折異常で発生するとされている。この現象の程度と回復度合いはまさしく"人"によって異なるが、おおむね術後一週間から10日の時間の経過と共に回復していく場合が多い。
一方"手術"そのもの(例えば"過矯正"),もしくは術後の"ケア"に何らかの問題が生じた場合"深刻"な後遺症=つまり"都市部の夜間の外出がほぼ不可能になる"・・等が生じる事もある。
その光は"たんぽぽ"の"綿帽子"=タネにそっくりだった。
車や街灯が派手に"アイ・メイク"しているように見えて
なんだか"可愛らしかった"。
幼少の頃,遊び友達達と別れても,遊び足りずに
ひとりっきりで夕暮れの野原に立っていた事を想い出していた。
追憶は今の自分にとって,春と秋が混在してしまった。
記憶の中では秋の"ススキ”と"タンポポの群生地の綿毛”が混じり合い,
"射て貫く"ような凄まじい落陽は鈍い"サテンゴールド”に輝いている。
ただひとつだけ,確かな事が言える。
あの頃の自分の視力はとても良かった。
幼少の頃の自分は
思いついては日が暮れる間際まで
"四つ葉のクローバー"を探したりしていた。
"四つ葉のクローバー"はいつもすぐに見つかった。
クラスメイトの好きな女の子にあげたいと思っていたからそっとズボンのポケットに忍ばせて"ほくそ笑んで"は自宅帰って引っ張り出せば,いつも葉っぱが千切れてしまっていた。
いつも最後は"三つ葉のクローバ-"になってしまっていた。
その繰り返しだった。
幼い頃,
一度も"プレゼント"出来ずにいた同級生の彼女の事を想い出していた。
今,何処で何をしているんだろう。
当然,クラスメイトだったから同じ年だった。
街灯を見ながら"転校"してしまった
大昔の大好きだった同級生の"女の子"の面影を思い出していた。
何も始まらないし何も終わらないけれど,
ほろ苦い思い出したくても二度と思い出す事の出来ない
古いい追憶が蘇ったいた。
その子の名は"・・・美樹"・・といった。何十年も思い出せなかった
その子の名前をいま,私ははっきりと憶い出していた!!
限りある人生の中で,
もう一度だけ逢いたいと胸の奥にそっとしまった。
【3月1日(日曜日)】
正午=昼まで寝ていた。
何度か目覚めたが
まるで"起きる元気"=気力が沸かない。
右目の激しい痛み(立っていたり,部屋を歩いているだけで座り込んでしまう程の突然の痛み)が生じていた。
点眼"麻酔"を検討した。
すぐに"否定=我慢"した。
"打てば=点眼"すれば,眼の成長を抑制する。
手術後の痛みは"覚悟していた"筈だ。
検査技師の方も"麻酔薬"は"最後のお守り"として考えておいて下さい!と説明されていた。
"麻酔薬"はどんな事があっても使用しないと手術前から自分は心に決めていた。
その代わりに"ロキソニン"=鎮痛薬ではない"バファリン"を服薬する。
"稽古"やその他での間接痛や筋肉痛で普段使用している"鎮痛薬"だ。
頭部の疼痛や眼の奥の痛みで,何もする気が起きない。
何かを考えようとすると"痛み"が阻害する。
ベッドの上でずっと横になって過ごした。
けれどもベットに横になり続けるのも耐えられない。
日頃の習性でいつまでもベットに居るといらいらしてくる。
やはり"何か"をしていないと気が済まない。
何年も放置していたリビングの自分専用の
テーブルの"机の5段の引き出し"の中身の整理などをしてみたりした。
結局,不用なものだらけだった。
引き出しの中は空っぽになってしまった。
眼に負担のないように大掃除ではないものの,
音響機材の多い"機材"部屋の窓際を掃除したりした。
そこで見つかったのが,SONY製ヘッドホン(MDR-XD400)で
イヤーパッドがかなり劣化している事に気がついた。
荒療治で"重曹溶液"を塗り一晩置いたが結果は駄目だった。
※これは別記事に掲載している。
どんどん眼の痛みが酷くなってきていた。
この眼の痛みは細胞が活性化されて自然に再生されてきている証か?それとも?!・・
真夜中。
ほとんど2時間起きに目が覚めてしまう。
眼の疼痛が酷い。
朝まで2時間以内には必ず目覚めていた。
"理性"が混沌としてきた。
良い睡眠が採れなくなってきていた。
【3月2日(月曜日)】
朝7時30分に起床した。
突然,朝目を覚ますと,
目の前が真っ暗になっているのではとまるで"根拠のない不安"が生じ始める。
ベットから起きるとすぐにベランダに出て外の景色を見た。
"見えた"!
まだ自分の眼は"光"を失ってはいない。
順調なんだと言い聞かせた。
今日も"診察日"だった。
これは"PRK"ならではの経過観察の診察日だと思う。
今日も問題なく病院=クリニックへ間にあった。
まず,視力検査。
手術後の翌日に比べると,
視力は大分"落ち込んで"いた。
遠視では0.7程であった。
近視では"相当悪かった"為か
検査技師からの説明はなかった。
"これは一過性なのでどうか気になさらないで”
と男性の技士が私に話してくれた。
主治医に依る,光照射での検査。
なんと8割程度,
"角膜上皮”がリカバリーされてきているという!
その"結果報告"は
自覚症状が厳しい今の自分にとって
それは嬉しい"経過"だった。
午前の診察を終え,飯でも食おうと
"陳建一・麻婆豆腐店"の店に入った。
丁度,昼飯時だったので店内は非常に混雑していた。
中国人の料理する店で普段はいつも食べているせいかだろうか,
もの足りないというか,はっきり言えば,
あまりおいしくなかった。
会計する際,厨房を覗くと,
日本人の料理人でない事は分かったが,
おそらく私は二度とこの店には立ち寄る事はない。
※"食の評価"とは趣向性が強く,実際食べてみないと絶対"分からない事ぐらいどなたもご承知かと思う。つまり私の"述べている事"もまるで"当てにならない"のだが,例えば競合店と比べた場合ヨコハマ"みなとみらい"のこの場所で"陳建一麻婆豆腐店"と"陳麻婆豆腐"のどちらを薦めるか。
↑あくまで同系列のビル内では私にとってはこちらの味のほう
が圧勝であった。故"陳建一"さんには大変申し訳ないが,少なくともここの狭い"埋め立て地"界隈でのあなたの支店であるヨコハマのこの店の味は"アジアン料理"を食べ尽くし中華料理を世界Ⅰと感じてる自分にとって,すみませんが"全く"おいしくなかったです。曖昧模糊とした表現で,どっちもおいしかったです・・・などこのサイトのwebマスターである私は何事も曖昧な表現は
決してしない。つまり
ただ辛い"豆腐料理"でした。
"麻婆豆腐"自体はただ辛かった(香辛料は確かに本格的)ので食事しながら私が"むせる"と隣の若い2人組の日本人の女が"睨み付けてきた"!w
"コロナ・ウィルス"に敏感なのは分かるが,
辛いものを食って"むせた"からといって"にらみつける"程でもないだろうにと思いながら,わざと定期的に"咳込んで"やった。
眼球や頭痛が酷いのでだんだん店内に居ること自体苛々してきた。
それでも白米は無料サービスなので折角だから何度かオーダーした。
昼飯を食っている時はまだ良かった。
しかし,帰りの横浜地下鉄ブルーラインに乗って帰宅途中,
"手術"以来初めての"本格的"な激しい激痛が私を襲い始めていた。
眼を少し開けるだけで"網膜"の奥?に突き刺さるような激痛が走り抜ける。
カットした"角膜"が"自分"ではない="他人"のものと脳が誤作動を起こして感じているのだろうか?
まるで"臓器移植"をする際の拒絶反応の如く,
"自分自身の角膜"でありながらも他人の臓器として自分の脳は"勘違い"でも起こしているのだろうか?
角膜を削るという手術は臓器移植とは違い"生着率"=臓器が手術後機能している割合"や"阻血時間=即ちドナー体内で冷却されていない"温阻血時間”とドナーの体内から移植するまでの"アイドル・タイム"である"冷阻血時間"などの多くの課題とは一切無縁な"オペ"である。
どの判断も医学的根拠のまるで伴わない間違いであると自分なりに理解していても,”眼の角膜の移植手術として脳が誤認識している"としか思えない程の未知数"を感じる激しい痛みを感じ始めていた。
この貫くような痛みの"理由=その訳をどうしても知りたいと思う程,
深刻な"激しい痛み"が私を襲い始めていた。
正直,目を開けていることが困難だ。
目を閉じていても,
激しい頭痛がする。
"吐き気"の症状が強まった。
個人差はあると聞いていたが,
これが"PRK"手術の後日の"本格的な痛み"というものか。
これは"手ごわいな"と感じた。
眼球自体も"ひりひり"する様な痛覚があるが,
目の奥の視神経は何とも言えない様な重い鈍痛と突然,貫く様な痛みが交叉する。
無理に何かを観ようとすれば"神経そのもの"が強く圧迫された様な感覚を受けた。
帰り際,駅前のショップでまたもや無理をして立ち寄り,
今度は違う100円均一でまた+1.5の老眼鏡を購入した。
視力の"波"の激しさも増している。
"痛み"が"鋭利"になってきていた。
"正念場"・・・か。
【3月3日(火曜日)】
目の痛みは波はあるものの,
"痛覚"は昨日とほぼ同様だった。
私は手術から一切,
PC(WEB)から遠ざかっていた。
そもそも"液晶画面"を観るのが怖かった。
例え観てもたぶん,今の私の"眼"では
数分で耐え切れなくなるのは間違いないだろう。
実は"真っ白"になってしまって,
何も見えなかったらどうしようか?
"麻酔"はまだ打ってはいない。
鎮痛薬として"バファリン"に依存し続けていた。
私は既に"鎮痛薬"を服用しすぎていた。
起きている間,2時間起きにずっと"鎮痛薬"を服用=飲み続けていた。
何もすることも出来ずに"痛み"とつきあい続ける一日となった。
【3月4日(水曜日)】
朝。猛烈な吐き気で目が覚める。
時計を見る余裕はなかった。
トイレで何度も嘔吐した。
吐き気が収まらず,
1時間半程,嘔吐し続けていた。
もはや立っている事も出来ず,
トイレでしゃがみ込んでいた。
昨日までに大量の"バファリン"を服用した為に,
胃にダメージが起きたか?!
胃痛も酷いが,目の痛みも酷い。
しかし胃痛よりも眼の痛みの方に凄みがあることが怖かった。
ベットに横たわり,
気分が悪くなれば嘔吐し,寝室とトイレを行き来していた。
夜までその繰り返しを何十回と繰り返して過ごす日となった。
寝室では
睡眠をとることに専念した。
疲れ,目を瞑っているうちに,
日中,夢で何度もうなされた。
楽しい夢では決してなかった。
"既に死んだ友人や先輩や恩師"達が
何度となく出てきた。
"辛辣"な一日だった。
【3月5日(木曜日)】
横浜の桜木町へ行って戻ってくるだけで酷く疲れてしまう。
今日は,手術後第一週目の診察だった。
常に行われている,視力検査や眼圧検査。
視力は相変わらずどうも良くない。
左目よりも以前"利目"であった方がさらによくなかった。
けれども,主治医のジャッジの元,
手術の執刀医とは別の眼科医に依って,
"ソフトコンタクトレンズ"を手術後初めて外して貰った。
急に視野が鮮明に映え,とても眼が"爽快"に感じた。
"コンタクトレンズ"自体,
生まれて初めての体験だった。
痛みが酷い患者の場合は,
再度コンタクトレンズを着用するという事だった。
今回の診察で私は
"伝えなければならないこと"を
あえて主治医へ伝えなかった。
その事実はこの激しい"痛み"である。
激しい"痛み"を訴求すれば,
再度コンタクトレンズの
着用もあるからだ。
その分回復=治りが遅くなるだろう。
その遅れは自分には
今後予定があり,避けたかった。
自分の場合は手術後の
理学・物理的な?"経過自体"は良いこともあって,
再びレンズを着用しなくて良いことになった。
私が体験している以上に
壮絶な?強い痛みを伴う方もいるのだと,
その際改めて考えていた。
そういうひとが,
もう一度,再びコンタクトを装着するのだろう。
帰宅すると,眼球がとても疲れていたので昼寝=仮眠した。
そもそも連日の痛みに自分は疲れていた。
私は大事をとって,
一週間"洗顔"や頭をシャンプーで
洗うことを避けていた。
"水道水"でさえ手術後暫くは"眼"に直接入らない様に指導を受けていた。
水道水が"有害"であるという事を"検査技師"の方から説明を受けていた。
眼の角膜手術というのはデリケートで粘膜の場所だった。
全身シャワーを浴びる際,
"水泳用"のゴーグルが本当に役に立った。
※PRK手術をなさる予定の方は,是非"水泳用"のゴーグルを事前に
購入しておく事を強くおすすめします。たいした出費にはなりません。
多分この様なアイテムは病院側からは支給されないかと思われます。
備えあれば憂いなし,の必須アイテムです。
【3月6日(金曜日)】
今日は診察日はオフだった。
最近購入し既にこのwebサイトでも
多用している"コンパクト・デジタルカメラ"の
マニュアルのファイルの差し替え作業を行った。
1-2頁その他すべての頁が逆さまにファイリングされている。
俺はいったい何をやっているのか?!
長年,事務屋(事務職)のプロとしてあり得なかった。
眼の手術前後で朦朧としていたのか?
すべて順序の入れ替え作業をした。
正午・
PCの"液晶画面"にそろそろ自分は慣れてゆく必要があった。
意を決して,
手術後初めてパソコンに電源を入れる。
当初は文字を読まなくてもいいじゃないか・・。
"液晶画面"の画像や映像がまず見れるかが問題だった。
こういう療養中だから普段じっくり見れない映像を見たいと
思い※香川先生(松濤館流空手)監修の基礎型稽古の
映像を見たいと思いDvdを挿入したがなぜか再生されなかった。
※香川 政夫(かがわ まさお)
1955年(昭和30年6月8日生)大阪府出身の空手家。
全日本空手道連盟"JKF"理事。
日本空手松涛連盟'JKS"理事・首席師範。
帝京大学空手道部師範。世界各国で空手道の指導普及に当たっている。
しかたがないので,
何か映画でも見ようと思った。
選んだのは"アウトレイジ"の最終章と,
BRUCE LEE先生の"死亡遊戯"。
どちらも既に観ている映画だ。
特に"死亡遊戯"は数え切れない程繰り返し観ている映画だった。
なんて色気のない,
無骨であまりに男臭い映画ばかり選んでいるのかよくわからない。
でも"死亡遊戯"は”恋人"を助けるシーンがたくさんあるから
多少甘いムードがあるのが救いだった。
安物の老眼鏡を何種類か使ったり,裸眼で見たりした。
見えにくさはあるものの,
思っていたより動く映像が把握出来ていた。
ただ,すぐに眼から全身に疲労感を感じてしまう。
それでも今の"結果"にたいしては素直に
とても満足し,嬉しく感じた。
【3月7日(土曜日)】
午前10時半。
手術後初めて,
車の運転をした。
紫外線が眼に入らない様にサングラスをした。
※少なくとも手術後の一年間は紫外線を避け,
サングラスをして野外に出る事が望ましい。
おそるおそる,
"クラッチ"を繋ぎ,低速で
駐車場から"公道"へ車を出した。
無理のないよう,近所のガソリンスタンドへ
寄り,コイン洗車場へ行き,少しスーパーで
買い物をして戻って来る予定だった。
もし眼に異変が起きれば,"休める"様に
暫くの間,駐車可能な場所を選択していた。
当然"目薬"を携帯していた。
"鮮烈"だった!
走っている対向車のナンバープレートの番号が次々と
咄嗟に目に飛び込んできた!
まさに自走している自分の車が"地を這うよう"に感じた。
アスファルトの舗装が鮮明に見える。道路の継ぎ目が
飛び込んでくる!
裸眼で運転するなんて何年ぶりなのだろうか?!
運転出来ない事はなかったが,今までは危険すぎた!
これが"乱視ゼロ"の世界なのか!!
感動していた!!
けれども三カ所,車で移動し,
買い物や洗車をして戻ったら,
眼の痛みと疲労感が凄かった。
手術後一週間以上経過ていたが,
長時間の運転がまだ無理な事がよく分かった。
自宅に帰り,何時間もリビングの床で寝てしまった。
【3月8日(日曜日)】
私は一生記憶に残るような,夢を見た。
ヴァファリン(鎮痛薬)を服用する事を一切止めることにした。
相変わらず,
猛烈に眼の痛みがある事も多々あったが,
先週ほどの猛威は明らかに減っていた。
液晶モニタの文字や数字も見る様にした。
様々な安物の老眼鏡を使用した。
しかし,どんな距離で見ても,見えなくはないが,
とても見難かった。
そして,数十分液晶モニタの中の英数字や
日本語の文字を見続けていると,
言葉にし難い疲労感が襲った。
眼の乾きも凄い。
会社へ届け出ている休暇は2週間だった。
肉体的にも精神的にも今週以内に
可能な限り回復する必要があった。
課題は数字の判別だった。
どうしたら商品バーコードのような
小さい数字を見分けられるか。眼の
訓練を何時間も繰り返していた。
強いメガネをかけた時のようなこの違和感,
老眼鏡をいろいろと試していると眼の前がミスト=霧状の
もやのようなものが出現し文字がかすんでしまう。
私は焦りだしていた。
【3月9日(月曜日)】
外部ストレージ(HD)から異音が生じている。
経験上,このまま放置していると物理的に破損する恐れがあった。
急遽,他のハードディスクに
2TB分のデータをコピーした。
USB2.0の経由で移行。低速で
20数時間以上掛かってしまった。
【3月10日(火曜日)】
故障仕掛かっていたストレージからデータの
意向は無事終了した。
何度も繰り返し観た映画
だったが”ブラック・レイン"を観ていた。
やはり素晴らしい映画だった。
そのあとまたリビングの床で寝てしまっていた。
【3月11日(水曜日)】
私は精神的・肉体的に
完全に"失望"していた。
自分自身に"失望"した。
私の眼は,私の最後の願望を叶えてくれたかもしれない。
優秀な医療スタッフ達と,
日本のトップとも断言出来る執刀医の
手術によって,私の両眼は別人と化した。
裸眼ではほぼ,自分の願望を叶えつつある。
しかし私には"老眼"があった。
決して実年齢が若い訳ではなかった。
その事実は百も承知で,手術に挑んだ。
でも,文字や数字の判別は想像を遙かに超えて
悪化した。つまり眼の前の50センチ以内の
視力である。あまりに不安定だ。
この状態は少なくとも3ヶ月以上は続くと"告知"されている。
社会復帰,つまり現在の会社の事務職で
"バーコード"や"照会ナンバー"をひたすら追い続ける様な"業務内容"は間違いなく不的応な眼になってしまっていた。
私は社会的な部分的な側面では,
ある商品の物流会社に身をおいている。
その会社での私の業務の位置付けは出荷状況の精査,
商品出荷データの"抹消取消処理"・"修正"・"追加"など,
眼を酷使する機会がやたら多い。物流業界というのは,相手=客の望む
"物品"が正しく"時間通り"に確実に客の手元まで着地しないと"金"にならない業界=商売である。
世界各国どの国でも共通した要素の高い業界だと思う。
出荷状況の調査は日本のすべての運送会社の動向を最後まで追い続けてゆき,追跡が途絶え"クエスチョン=?"となれば,運送会社へ直接
Faxを流し担当者に問い合わせてゆく。
物が確実に着地しているか,執拗に調べ上げる。
確証性がなければ請求そのものが成立せず売り上げにならない。
ひと月単位で,客に支払い請求しなくてはならない。時間が限られている。複数の出荷個数では1つだけが無事に配達完了であったり,
総てが追跡不能になっていたりするケースなど状況は様々である。
1個の"利益率の極めて低い”荷物であっても執拗に運送会社へ問い合わせ続ける。その積み重ねは毎月ごとの請求に関わる重要課題で,
薄利多売な商品を扱う会社にとってはこの徹底的な繰り返し作業の調査なくしては社の実益"を生む事が出来ない。従業員の給料がそもそも払えなくなる。いずれにしても自分の眼が"ミス"を冒すとややこしくなる処理がやたら多い。
だから異常なくらい自分は眼をかなり酷使する。
正直,文章をPCで打刻するなんて簡単だが,数字は私にとって怖い存在だ。3と8を間違えると会社にとって深刻なダメージが生じる可能性だって起きる。
本来"現場"をサポートする側の事務所に身を置いている筈であるが,
課同士の"頭=課長"との折衝も私の場合は多い。課間同士の折衝を行える
人材=物質で言えば"ジェル状"の潤滑油的な存在が
非常に希薄な組織に現在身を置いているからだ。
現場をうろうろ徘徊しているケースも多い。
個人的に思う点では,おおむね,日本の中小企業の物流業の優良企業と比較した際,自分が身を置いている社に洗練さがない。
いらだつのは自分の眼が"現場"でも酷使するケースが多々ある点だ。
その現場においては物体=商品の移動が頻繁であり,極めて流動的だ。
物流は、元来,物の瞬間移動と滞留を極限まで着目する必要性は認める。その事自体は正しくても社に際だったロジスティクス(軍用語)=が成立している場合に採用すべきだ。
各部署の"頭"が物品のロケーション(配置)を懸命に模索し決定している事にとやかく外野が苦言を述べるべきではないが,数週間おきに配置替えを行うことは現場のベテラン・スタッフ勢すら物の居場所が掴み難くなり混乱があるという事実は果たして軍隊=企業として改善すべき脆弱性のある組織と感じる。
物流業界も他業界と同様に"時間との闘い"つまり効率化が現代のミッションとしてある。客のニーズがそうしているに他ならない。
どの業界の社も同様と思うが
"課"同士のセクションには必ずそれぞれ"道理"ってものがある。
それを日本語では"台所"と比喩する事がある。
それら"台所"同士が上手く連結し機能している企業は,
間違いなく業績を伸ばしてゆく。競合他社を圧倒する。
私はすべての会社の現場スタッフを信用しているが,
誰がいつ何を出荷し"何時何分何秒に何を行っているか"という"虱(シラミ)潰し"の精査まで行うような嫌な役もしている。
過去なんども思ったことはあったが
いよいよ"退職"という思いが浮かんだ。
3と9の差,3と8と9の違い。
今の自分にはおよそ判別が厳しい。
今の私の視力では大きな拡大鏡が必要だった。
来月の10日間以上は会社にて12時間以上の仕事を全う
しなければならない。それはお金の問題ではなくて
これは会社と私との"縁"や関係性の問題だ。
通勤手段の問題もあった。
車での片道2時間以上の通勤。
12時間の業務上での眼の酷使に
"手術後"の私の眼は耐えられるのだろうか?
冷静に考えるまでもなく今の視力では
答えは"無理"だった。
ただし,13日(金曜日)の結果で
最後のジャッジ=判断をしようと思っている。
無理なものは,
誰だって無理だ。
企業の繁忙期間に不在で"穴"を開ける様な使えない人間などはどの世界でも通用しない。
"退職"するかしないかは,その後で決定しよう。
【3月12日(木曜日)】
まる一日,
寝室で寝て過ごしていた。
少し目が覚めるて
ベットの上で天井や窓ごしを眺めるとまたすぐ眼を瞑った。
起き上がる気力がなかった。
夢すら観なかった。また寝ていた。
【3月13日(金曜日)】
朝,寝室で目覚めると
すぐに屋外のベランダに出た。
外の景色を裸眼で見た。
見える!
大丈夫だ。
"決行"する。
身支度をし,
午前8時台に出発した。
片道数十㎞の距離を(車で)走行出来るかどうかだった。
この日は手術後2週間最期の課題=ミッションだった。
快晴だった。
10㎞も運転し終えないうちに,
視界がぼやけてきた。
行く先を表示した"青看板"の標識が近距離にならないと判読出来ない。
焦りはじめた。
ダメか?駄目なら
"予約"をキャンセルし折り返し,
戻るしかない。
しかし,諦めなたくなかった。
材木座海岸-海に出た。
逗子市の狭いワインディングを走っていた。
葉山の御用邸前を通過し海沿いをずっと走る。
横須賀の自衛隊を通過し,
"通研通り"を通過する際は車内の
レーダー探知機が何度も激しく"警告"し出した。
通過する際,何の理由かわかり兼ねたが,二人の刑事が
妙な装置を置いて,歩道の少し
奥に隠れたように椅子に居座っているのを確認した。
以前,スピード違反で切符を切られた通りである。
目が合った。
道の先では
何も起きなかった。
いつの間に全体の走行距離の2/3を通過していた。
気がつけば両目・あご・右耳・奥歯が痛い。
眼に限界が来ている様子だった。
しかし無事に事故もなく,一切休むことなく
病院まで到着する事が出来ていた。
病院の駐車場に車を停め安堵していた。
予想よりも一時間も早く到着していた。
診察はすぐに終わり,
病院でいつまでもくつろいでいる気も起きないので
また同じ道程で車を運転した。
行く時よりも遙かに眼の状態が悪くなっていた。
運転していて息が荒くなる程,眼の痛みが生じていた。
コンビニに立ち寄っては,何度も
眼をクールダウンして,どうにか無事に帰る事は出来た。
長時間の運転がまだまだ無理である事を伝えているようだ。
"辛辣"であったが長時間の長距離の運転は
一応はクリア出来た!つまり,あまくで一応だが
通勤に耐えれる状態である事を意味していた。
その答えは嬉しかった。
ひとつ経験して分かった事は,
休まず2時間以上運転する事は不可能であるということだ。
正常なひとの眼でさえ,その行為はかなり厳しい。今の
自分の場合は,何度も休みながら,長距離運転する事しか
できない。
ただ,殆ど連休もなく連日,通勤し,来月4月から始まる2週間以上の
12時間労働に眼が耐えられるかはかなり疑問だという結果だった。
くたくただった。
またいつものようにリビングの床で寝てしまっていた。
【3月14日(土曜日)】
大雨。
お昼に"貰い物"で旨そうな"茶そば"が眼に止ったので
手術後初めて自分で"調理"してみた。料理といっても
ただ茹でて水揚げして食べるだけだったのだが・・。
ここ2週間は何も自分で料理する事が出来なかった。
手術後1週間はあらゆる食材が目に沁みるほどだった。
手術後数日はパン屋にいるだけで目が痛くなった。
手術後の検診の際,エレベーターの中で女性検査技師=
"レーシック"をなさっていた方と雑談したが調理が
目に沁みて包丁でタマネギを切る事が暫く出来なかったと
おっしゃっていたのを思い出した。
"茶そば"は凄くおいしかった。
食べたら,また床=リビングで何時間も寝てしまった。
定期的に空気を入れて,あとはタオルを強いてリビングの"まくら"代わりにしている。
平日の仕事前も目覚まし時計で一旦起きて,この"まくら"で"二度寝"しないと
一日をスタートできない。ここ数年この繰り返しである。
空気は入れすぎても・少なくても駄目である。
【3月16日(月曜日)】
2週間の療養生活を終え会社に復帰した。
普段通りの仕事量であったが,眼の状態は厳しかった。
【3月19日(木曜日)】
手術後,一ヶ月後の検査。会社には有休届けを出していた。
私の角膜上皮は95%修復されていると主治医からの説明を受けた。
患者として多難の時期はあったが,
術後の状態は極めて順調であった。
手術前から従来,処方されている眼圧を下げる点眼薬は
再開するようにと言われた。つまり私の眼圧は
手術で角膜が薄くなっても,"期待通り"には下がっていなかったのである。
本来であれば,角膜を削れば,眼圧が下がる可能性は高い筈であったが
私の場合はレアケースなのかもしれなかった。
角膜手術においては術後"ドライアイ"の傾向が非常に強くなる。
私の場合も同様だった。
同じクリニックで別の女医を紹介して頂き"ドライアイ"の検査を行った。
やはり私の両眼もドライアイ"の傾向が顕著だった。
今後のドライアイの対策のレクチャーとたくさん"点眼薬"を貰って帰った。
【3月25日(水曜日)】
私は従来の地元の眼科へ来院した。
手術の執刀外科医の紹介を行ってくださった方だ。
手術は無事,成功しましたとお礼を言い,経緯を報告した。
先生は喜んでくださった。
従来通りにそのクリニックでも
違う医療機器にて,眼圧,視力,角膜細胞の数など検査する。
他の検査項目もあったかもしれない。眼の中の撮影があった。
診察中,私の眼は昔に比べ"乱視が殆どゼロ"に近い状態であると説明してくださった。
つまり,
私の両眼は過去のものとは違う
他人の眼として"生まれ変わった"。
この日,視力は絶好調であった。
両眼とも裸眼で1.2以上をマークしていた。
"眼圧"を下げる点眼治療の再開をお願いした。
※眼科医療の難しさというのはこうして
患者の体調で大きな変化が生じるという事である。
眼の精査においての"査定"は患者の身体のコンディションに
かなり左右され,とくに視力などはこうして著しく変化して
しまう点が難しいのだと思われる。
【3月28日(土曜日)~29日(日曜日)】
手術後,だいぶ日が経過しているにも関わらず,
私は酷い目の痛みにさい悩まされていた。
また手術してから2週間後に普段の生活に戻ったものの,
心身の疲労は体感よりももっ酷いのかもしれない。
術後,一週間以内に起きた激しい吐き気が再び襲う。
28日早朝から嘔吐し,予定は全てキャンセルとなった。
一日中寝て過ごす事となった。
社会復帰はしていたが,
"眼"の酷使は相当なものかもしれない。
もうすぐ4月に入り,
さらに過酷な"眼"の酷使
を強いる必要があった。
大丈夫だろうか?
やれるところまで,やるしかない。
手術してしまった以上,昔の眼に戻れない。
"腹を括る"しかない。
出来ないものは出来ない。"転職"も視野に入れ覚悟して
ゆかなければならない。
自分の限界値などとうに知り尽くしている筈だった
見えないものはどんなにあがいた所で"見えはしない"のだ。
【4月18日(土曜日)】
午前中は大雨。
雷雨さえ伴っていた。
埋め立て地である桜木町は,
強い雨と風で嵐の様だった。
"ドライアイ"の面での予約診察日だった。
私の手術を執刀してくださった医師の診察ではない。
日本は"コロナウィルス"に依る"非常事態宣言"
が4月7日に政府および内閣官邸により発令され,
橫浜の桜木町のショップもほぼ100%閉鎖されていた。
煙草を吸おうと思い,クリニックの所在する
"クイーンズ・スクウェアビル"内の6fの喫煙所は完全に閉鎖されていた。
人影はゼロだった。
過去にこんな無人の
"みなとみらい"の街を見た事は一度もなかった。
それでも"ランドマーク"内部のあらゆるベンチに腰掛け,
ただひたすら座り続けている人間を何十人と見かけた。
彼らは何をしているんだろう。
誰かを待っているんだろうか。
浮浪者ではなかった。
けれども,一般的な風情でもない。
この日本人の"層"を私は今日生まれて初めて知った。
自宅におらず,こんな酷い天候で
"非常事態宣言"の最中,店も全て閉店しているのに,
こんな埋め立て地の一帯になぜ,
彼らはいつまでもベンチに座っているのか不思議だった。
病院に行く際,通りすがりに見た人々は
病院の診察を終え,帰り際も同じ人間が同じ場所(ベンチ)に座っていた。
ひとりで何処へ向かうのか早足で歩いている者もいたが,
殆どのひとの服装はどう見てもいささか汚れ,
何処か不衛生な感じの男性が圧倒的に多かった。
普段からこうした人々は一般の群衆の中に"埋没"しているにすぎないの
かもしれないと思った。
観光客や"一般人"がゼロの状態,つまり今,
彼らがただ目立って目に止まっただけの事なのかもしれない。
でも,こうした"彼ら"はなぜ"いえ"にいられず,
こんな殺伐とした"ゴースト・タウン"のような天候の悪い場所
うろついていたり,非常事態宣言が発令されているというのに
何時間もいす=ベンチに座っているのか本当に不思議でならなかった。
おそらく,彼らの普段の居場所が封鎖されてしまったからかもしれない。それはマクドナルドで"一杯のコーヒー"で時間を潰したり,ネットカフェやゲームセンターで時を過ごしたり,
様々な場所がいきなり封鎖=閉鎖されようとしている。
狭い自宅で独りっきりでいると無性に不安になるのだろうか?
昔ならどうでも良い些細な事も,
今の私はどこか変わった気がした。
無性に他人の相手の事が気に懸かっていた。
"鮮烈"な夢のせいかもしれなかった。
自分は自分なりに,つい先日まで,
辛い時期を乗り越えてきた自負が少しだけある。
"何事も深読み"する傾向がさらに強まっているのではないだろうか?
その前に6Fに立ち寄り,煙草を吸う予定であったが,先述したように喫煙所は完全閉鎖されていた。
画像で人影は皆無であったが,途中ベンチで大勢のひとが何故か座ったままじっとしていた。
凄く不思議な光景だった。
生憎天気は酷かったが,
予約時間に間に合った。
女医に依る診察を受けた。
今日は機械に依る眼圧と視力の検査を最初に受けた。
主治医もそうであるが,
この先生もとても優秀な先生だった。
光照射にて医師の肉眼に依る検査と,
ドライアイ検査用の点滴に依っての診察だった。
"ドライアイ”は一ヶ月前に比べれば
かなり改善されているとの事であった。
けれども当初使用していたステロイド剤
を含めた手術後用の3種類の点眼薬を1日
3回ずつ,今後も当面続ける事となった。
"ステロイド剤"は副作用の低いものになった。
"将来の予後"の為に"念には念を"という事なのだろうか。
また今後は手術後の3種類の点眼薬以外にも
多くのドライアイ用点眼薬が必要になると考え,
"ドライアイ"用の薬剤は従来の主治医(外科医を
紹介して下さった地元の先生)で保険適用にて
処方して貰えないものか相談したところ,
すぐにOKが出た。
手術後相当の薬剤を投与して
きたが通院費並びに薬代は全額"自費"であった。
今後長期化する検査や診察,薬剤の代金は相当に
なるものと考え,出来るだけ軽減したいという私からの要望だった。
4月を
振り返れば,
会社の繁忙期間もなんとか無事にクリア出来ていた。
途中"眼の危険な時期"もあったが,
通勤及び車内業務もなんとか
遂行する事が出来た。
ただ眼の点眼薬(ドライアイ用の点眼薬)
の量とその回数は半端ではなかった。
次は手術後の3ヶ月検診。
6月6日が予約日である。
3ヶ月の間に果たして,自分の眼は安定するのだろうか。
この街=桜木町=みなとみらいもまた
以前のような活気に"復活"しているだろうか。
【4月25日(土)】
私は従来の地元の眼科へ来院していた。
手術の執刀外科医の紹介を行ってくださった方である。
先日のドライアイに関する件や今後のドライアイ治療薬
に関して先生から処方して頂きたいとその旨をお伝えする。
前回から従来の眼圧を下げる薬は処方して貰っており,
一日一回点眼治療を"再開"していた。
眼圧測定を行ったところ"16"という驚く数値が出ていた。
治療薬は見事に功を奏していた。
他に角膜の厚みを計測=写真撮影された。
私は始めて自分の"角膜"の横断面を見た。
先生も時間を掛けて大きく映し出された画像を精査なさっていた。
何も分からないが"まじまじ"と私は自分の角膜の横の断層写真を
生まれて初めて眺めていた。
何がなんだか分からなかったが,
素人のわたしのような患者に
先生はわかりやすく説明してくださった。
"だいぶざっくりと削っている感じね"
"それもまんべんなく全体を削っている”
"削りすぎなんですか?”
私が咄嗟に質問すると・・
"そうではないわ。角膜は十分な厚みを保っています”
先生は写真にある数字を指した。
"あなたの場合は角膜に十分な厚みがあったから※角膜ベッドは十分すぎる程です"
※手術後に最終的に残る角膜=角膜ベッドが250μm以上残っている必要がある,しかし250μmはかなり最低基準値であり300μm以上は必要とされている。
先生は大きな画像をよく見ながら最初独り言の様におっしゃっていた。
"傷らしきものがなにひとつない・・・
なんてきれいな角膜・・・
手術の痕跡すら全く見当たらない・・・”
"他の眼科医が観たらあなたが手術したことすら気がつかないでしょうね”
最後の言葉は私に振り返って笑顔でそう答えてくださった。
お礼を述べ,帰り際,診察室を出る際,
私は思わず先生に抱きつきそうになった。
側に検査技師が立っていなかったらほんとうに
抱きついてしまったかもしれない。危ないところだった!
それほど先生のお言葉は嬉しかった。
続く・・・。