“ブルース・リーとは”?!!-“李小龍”-“不朽不滅”!!-再燃!!-“活霊活現!!-評伝書!!-“マシュー・ポリー”著-“A life”!!-“ブルースリー伝”を書評する!!

【宣誓-はじめに】

↑1973年7月25日、午前、香港

私="eichanx.com"は
ブルース・リー財団(Bruce Lee Foundation)
並びに本書の原著の出版社=Publisher(パプリッシャー)である
Simon&Schuster(サイモン&シュスター)社、
そして著作者である
マシュー・ポリー(Matthew Polly)氏に関連した
本書籍におけるすべての
著作権・意匠権・知的財産権を無視しません。
かつ本書籍の日本語翻訳化された"亜紀書房"出版社
並びに翻訳家である
棚橋志行(Shiko Tanahashi)氏その他"本書籍"に関連した
あらゆるすべてのロイヤリティー(著作権・知的財産権)において
誹謗・侵害および中傷した記事=行為を掲載しないことをここに誓います。

[point_maker type="simple_icon" base_color="egyptian_blue" title_icon="info-circle-solid" title_color_background="true" title_color_border="true" content_type="text" content_color_background="true" content_color_border="true"]本記事は7万文字を超えてしまっているため、 現在も 校正編集作業中となります。 これからの新しい読者やファンになられる方のために 本編は私の所有する膨大な画像の一部と21世紀の全世界中の有志達に依る"神"編集と賞賛される動画リンクのいくつかを掲載する予定です。なお、掲載する画像および動画は当サイトの記事の為に使用されているもので、本書籍である著作物とは一切関与しないものとします[/point_maker]

【結】

李振藩先生へ

あれから
45年もの月日が流れました。
私は時あるごとに
先生のことを追いかけ続けてきました。

↑大好きな写真の1枚。愛犬"ぼーぼー=BOBOと疾走する"先生"。
犬種はグレート・デーン(Great Dane)

先生、
唐突ですけれども、

どうして
あんなに
若くして
死んだんですか。

あれからもう、
48年も経つというのに、
まるでさっきみたいに、
私は李小龍という存在を
真剣に追うだけで
哀しくなってきて涙があふれたり
するのでしょう。

それは、
先生があんなにあっけなく
この世を去ってしまったから

幼少だった頃の私。

あの頃のわたしは今よりも
もっともっと心が小さくて
耐えられなかった。

だって"先生"を知った時に
先生はもうこの世には
とっくにおられなかったから。

幼い私は何年もの間
"あなた"が
まだ生きていると信じて
空想までして生きていました。

先生、
先生がお生まれになって、
ご存命ならば
80歳でおられます。

まだこの世に
ご存命ならいつも
全世界中からの熱烈な賞賛とお祝いが
先生のもとに届かれていることでしょう。

しかし先生のいないそんな
こんな時代にほんとうにすばらしい
すごい先生の本が出版されたんです。

マシュー・ポリー(Matthew Polly)さんと
いう方が執筆なさって、
凄いのは先生と
ご縁が深く先生もよくご存じの方の
100人以上の方たちと実際に
直説会って、
先生の評伝を書いてくれて、
出版してくれたのです。

先生は能書きばかりで"説明しかおよそできない"
マスコミやジャーナリストのことは大嫌いでおられましたが、
このマシュー・ポリーさんは河南省の嵩山少林寺で
米国人初の門弟として2ヶ年間修行に勤しんだ
武闘派の方でとても信頼のおけるひとなのです。

先生の到達した武道や残された
映画が超一流であることは
21世紀のわたしたちにとってもはや周知のことです。

でも、
もっととっておきのことを
マシュー・ポリー(Matthew Polly)氏の
"先生"の評伝から
わたしは改めて感じることができました!

"先生"は32年間の人生の中で
出会った女性を本気で文字通り
それこそ死ぬほど情熱的に
全力で愛しておられました。

↑ブルースリー財団より引用。著名な写真である。
"先生"はワシントン大学構内にあるこの芝生の上に

仰向けにリンダ・エミリーを倒して
"スペース・ニードル"での二人きりの食事を誘った。

つまり初めてのデートを申し込んだ。
↑2021年現在の4本のギリシャ風支柱の芝公園の裏手

https://www.spaceneedle.com/lounge

その愛もまた、
21世紀の現代にとって今を生きる
私たちにとって
紛れもなく超一流で
不動かつ情熱的なものでした。

そして先生のことを愛した女性"達の愛もまた
本物で紛れもなく一流だったということを
私は心底改めて実感するにいたりました。

先生が本気で愛した
日系人の三宝恵美さん、
女優の苗可秀さん、
シャロン・ファレルさん、
リンダさん、
丁珮さん、そして・・
彼女達のことを評伝でふれるたびに
"あるひとつの歌"がはっきりと鮮明に
私の中で一環として
去来し流れてゆきました。

先生は"日本"をすごく
愛してくださいました。
武蔵(宮本武蔵)をリスペクトし、
座頭市を愛し、"残心"や
道の精神を世界の誰よりも深く重んじ
日本食を大事にしてくださいました。

私は日本人なので
日本人の女性歌手を
先生にお伝えできたらと思っています。

21世紀の今を生きる
この国の日本を代表する優れた女性歌手で
伊藤美咲(実名)、国際的に活躍している
"MISIA"という女性の歌声です。
"志"もとても高く"骨"のある方です。

私にとってはこの曲は先生がこの世を去ってから2年後の1975年に
全世界的にヒットしたモーリス・アルバート(Morris Albert)というブラジルの方の
"フィーリング"(Feelings)という曲に似ているんです。


歌のなかの"君"とは
そのつまり"先生"のことです。
"先生"にこの生意気な解釈と私の
"フィーリング"をどうかお許しください。

でももう、
私たちは"先生"よりずっと
この世の実人生という歳月を"生き"そして"経て"きています。
先生、人間が生き続けるってなんてずいぶんと
照れくさくて、細胞が老いてゆくものでしょうか。
でも、細胞が老いたからって、ひとの

心やその精神が老いる訳ではありませんよね。
先生はそうしたことがら全ても掌握なさっておられていました。

"この世"では先生はずっとお若いまま、です。
"先生"のことを慕う者としての私の思いや
"先生"を愛した女性達の思いがひとつとなったような力強く、
暗いわけでもなくて、清々しくて切ない、そんな
"先生"にふさわしき曲だと感じました。

↑後半部では歌詞カードには掲載されずに
言葉にならない引き裂くような叫びが収録された。
この歌手の本当の実力はいつも中盤から後半に感じ取れる。
この楽曲が巷に溢れたものとは異なり
非凡な傑出したバラードとなっている所以である。

"先生"にお気にいって貰えれば光栄の限りです。

そして
李小龍先生へ・・

最後に私からの
たったひとつだけお願いがあります。

どうか赦して頂きたいことがあるのです。
それは先生の死因をいずれ私が"公言"することです。

↑世界にとってひとつの巨大アイコンとなったGoogleという人工頭脳。
グーグルは決して"先生"とブランドンリー(息子)の

墓前にあえて近づこうとはしない。
あくまで背後から接近するのみである。
人類にとって重要な場所のひとつであることをAI="クロール”は知っているからである。
↑ブルースリー財団より引用。
墓前のまえの"とっておきの椅子"には

生の遺された数多くの言葉のひとつが刻まれている。
"The key to immortality is first living a life worth remembering”とある。

不滅の"鍵"とは、追憶に値する人生を生きることだ。と私は和訳する。

私はこんにちまで
ある意味"戒律"を自ら
厳しく守ってきました。

それは45年間ものあいだずっとでした。
それは先生の死因を公にすることでした。

しかしそれは私だけの"志"では決してありません。
心あるほんとうに"志"のある有志達はそう、
先生の死因を決して"口外"しませんでした。

先生だったら、
日本人の"志"のその言葉のほんとうの
意味さえきっと掌握なさっておられることと存じています。

でも、
先生がこの世界を
去ってから
もう半世紀近くの
48年もの月日が経とうとしているのです。

そのあいだに数多くの死因に纏(まつ)わる
"新説"が世界に流布しました。

それは信じる信じないは本人次第のものから、
医科学的に信憑性のあるものを含めると数えきれません。

私にはわたしなりに
先生の死因に関する
確固たる"持論"があります。

そして
先生、
先生の持病・・とはいったい
それはどんな症状だったのですか

その答えすら
21世紀の世界中の
誰ひとりとして知らないのです。

全世界中の多くの先生の研究家達ですら
知らない先生の持病ってどんな症状だったんですか?

私は先生が生前
おっしゃっていた通り最後には
文字通りすべてを"感じ取り"
その真実に"気づき"を得ようと、真摯に

自身の持ち得る感性に頼り、
ある"回答"に到達できたように思っています。

私はそのことだけで、
"45年間”もの実年齢での経験を踏まえた年月が必要でした。

けれども世界の"論客達"を圧倒し納得して貰えるほどの
説明は難しいかもしれません。
ただ厳しい辛辣な中傷だけを受けるかもしれません。

でも、その責のすべては覚悟の上です。
しかし私は先生の持病を、もしかすると世界で
初めて論じ、新しい事実の可能性のひとつを

投げかけることができるかもしれないのです。
(その課題に関して2カ国語以上で公言する必要性が
生じてくるかもしれません)

先生、ほんとうに私は
生意気者だと承知しています。

私の口外する明言は
きっと説明ばかりするな!
と先生に叱咤されるような

体裁になってしまうかもしれませんね。

しかしこんなわたしが
ふといつも感じたのは
先生ご自身が実は最も、
ご自分の死がなぜ起きたのか
ご存じないのではないか、
という私の素直な思いを抱き続けてきました。

ならばなおさらのこと。

私はそう、
マシュー・ポリー(Matthew Polly)さんの
勇気ある先生の評伝に触れ
私さえ勇気付けられたのです。

↑これは貴重なオフ・ショットである。裏社会のシンジケート役の俳優陣。名演であった。
↑日本での"死亡遊戯"劇場公開の国際版イントロダクション

先生、21世紀となった世界は
"ネットワーク"というものがそれはもう盛んです。

それはひとりひとりの頭脳(ブレイン)さえ
神経のシナプスに過ぎないとさえ思わせるほどに
人類がひとつになろうとしているある意味"試練のひとつ"です。

先生の究極的な教えのひとつに
ほんとうに少しずつですが、
世界は一進一退、一歩一歩に
近づこうとしているようです。

先生、
どうか
またご挨拶させてくださいね。
それでは。

"先生"の英魂を追悼するに
ふさわしいバラード1曲を選ぶとしたら日本人の一人として私は迷わない。
先述した伊藤美咲(本名)、"MISIA"の2020年の中国国内での凱旋ライブで
TV生中継も行われた"逢いたくていま"しか思いつかない。
"志"の高さそして"情熱"、"表現力の頂"は他の日本人女性歌手を一切として寄せ付けない。
小柄で華奢でありながらも壊れそうなほどにまで"全身全霊"で歌う姿は

"国境や民族を越えて感動を共有し得る"ということの難しさと素晴らしさを伝えている。
"先生"の英魂にふさわしいと曲だと思います。
お時間のある方は是非ご覧になって頂けるととても嬉しい。
↑"先生"と息子であるブランドン・リーの墓石。

【本文】
爆発し死滅するあまりにも
巨大な恒星は最後の眩(まばゆ)いその光を
盲人の網膜に閃(きらめ)かすだけで
その真実の光の軌跡を一切として
誰も知ることがなかった。

↑有志の方のwebサイトから引用の画像。
この場を借りてお礼を申し上げます。
↑近年の有志達による高度な編集動画の多くは無声映像となるものが多い。
この映像もまた今から50年以上も前のものなのである。
当時の映画業務用アナログテープは1秒間に24コマ数。
32フレーム(コマ数)にしても動作の見えない人物がいた。
実際の演武や実践においてはもっと遙かに高速で、

驚異的な圧倒的"打力"を兼ね備えている人物がいた。

誰もが知らぬまま
終わるかの如くに似て
"48年"もの間、
闇雲にざわめくだけの"喧噪"(けんそう)は
"真実"に近寄ったかにみえては
またかけ離れ、
時の流れがただ悪戯(いたずら)に
過ぎ去っていった。

聡明かつ断固とした決意。

その漲(みなぎ)る非凡で類い稀な
"魂"から迸る(ほとばしる)
凛然(りんぜん)と煌めく"巨星"の"叡智"(えいち)は
深淵(しんえん)な含蓄(がんちく)をも有し、
その体裁は凄味を帯び絶えず
"不撓不屈"(ふとうふくつ)であった
ひとりのアジア人男性。
それはある者にとっては
"傲岸不遜"(ごうがんふそん)とみえた。

過酷にも"知の実践"を己の
肉体で切磋し"全身全霊"で
"琢磨"した"技芸"と"主体性"はやがて
"結晶"となり眩(まばゆ)い
その閃(きらめ)きは瞬く間に
突如として彗星の如く去ってしまった。

自らの肉体を武器としながらも
最後まで闘わないための"道"さえ追求模索し、
高尚な思想家でもあった人物。

老人は嗚咽し青年は怒り、
うら若き女性達は卒倒した。
香港が阿鼻叫喚となった

"1973年7月24-25日"。

その生涯とその英姿は
人類にとって戦慄を覚えるほどに
あまりにも凛々(りり)しいものでした。

↑百戦錬磨の"不動心"で
棺の傍に寄り添い佇むひとりの女性。
毅然としたその姿は実の我が子を見守る
血をわけた母の如し。
防腐処理の極めて甘かった遺体を

"全霊"で霊安室でもマスコミを討ち払い、
最期の死化粧を施してくださったのは彼女であった。
つまり"おくりびと"=納棺師(のうかんし)である。
鄺金枝=マダム クォン・カム・チー(1901-1988没)。

その男性の実名は
リー・ジュンファン(李振藩)。

↑市民帰還申請書
↑"やんちゃ"というレベルではなかった渡米前の10代。
厳しい時代の香港では"名うて"のストリート・ファイターとしてギャング団を形成し"悪"素行を極め危険な少年であったが、

"弱きを助け強きを挫く"人物であった。
その男の生き方は全生涯に貫かれていた。
史実として明白している。

後に幼い頃から
リトル・ドラゴン(李小龍)と名付けられました。

李小龍=ドラゴンという
伝説の神聖なる瑞獣(ずいじゅう)で或る
"龍"の文字が刻印されたその男は
あまりにも短い半生(夭逝=ようせい)でありながらも
その巨大な思想的遺産をも私たちに残してくれました。

↑"現代思想"で引用した表紙画像のオリジナルはこれであろう。
Medium shot of shirtless Bruce Lee as Lee.

その"ヘリステージ"(継承された遺産)は無論
決して"誰のもの"でもありませんが
現代を生きるこの私、
そしてかけがえのない。
"あなた"にとって貴重な
"リソース"そのものです。

"それ"を受容する
しないかは、
あとは"本人次第"でしょう。

↑イタリア産総大理石で刻まれた墓標

映画界のみらなず今尚、
全世界に人類変革の希望と可能性を
絶えず指し示し続けてくれています。

その強烈な"サイン"は
半世紀以上経ったいま、
年月を追うごとにますます
増幅しているのです。

わたしはいつしか、
そのひとを"先生"と
心の奥底から"叫ぶ"ようになりました。
(以下、本文では李小龍"先生"をおもに"先生"と
略して記述いたしますことをお許しください)

そうつまり、
僅か数本の映画と2冊の書籍を遺し、
銀幕界のスーパー・スターとして数十億人の
誰もが周知する"BRUCE LEE"という人物です。

私はこれから"活霊活現"(かつれいかつぜん)
即ち"本当に目の前に存在しているかのように表現されている
慄然(りつぜん)の"評伝"書を評したいと思います。

もしも誰かのことを本当に好きになって
そのひとのこと(人生)を本当に知りたくて
たまらなくなったら、
まずは先入観や第1印象をやめて心を"空"にして
相手をしっかりと見なければなりません。

↑"先生"が誕生した病院。現在。

"本書"に出会ってから
そんな大事なことまで
常に再認識しています。

まだ私がとても幼なかった頃に
しっかりとした"言葉と姿勢"で
優しく戒め教えてくださったのも
"本書"の主人公である
"先生"のおかげでした。

そもそも敬愛する
"相手"というのは
自分の抱き描いた第1印象や
イメージなどというおよそ陳腐なものでは
決してないことでしょう。

↑Bruce Lee and Taky Kimura - Long Beach International '64
ブルースリー財団より引用。

単なる先入観は、
自分の経験でしか
なにひとつとして
物事をみれてはいないこと。

↑ブルースリー財団より引用。貴重なショットである。
アメリカの「ロングビーチ国際空手選手権大会」でJKDの演武をしたフィルム、
即ち21世紀の"有志達"に依って鮮明に流布されている伝説のフィルムの当日でのショット。

たとえば初めて出会った
優れた音楽や芸術作品や書籍を
アルバムのジャケットだけで評価したり
本の表紙だけで判断しているようなものです。

たった1本のその木に生えている
葉っぱだけをずっと見ていたところで
深い山間(やまあい)や深い森の梢(こずえ)の存在に
全く気がつかないのと似ています。

↑ブルースリー財団より引用。
当日のチケット(本物)であろう。

中央に"スペシャル・ゲスト"-"グリーン・ホーネット"役の加藤("カトー")とある。
No.1100は無人の席だったのか?。
座った方はいったいどんなひとであったのだろうか。

本書の主人公である"先生"は
"ランドセル"さえ大き過ぎた
まだとても幼い頃の私にさえ、
大事なことをいつも分かりやすく、
いろいろ教えてくださいました。

"本書"もまた
"血とし肉"とするまで、
私なりに"時間"が掛かりました。

4回ほど精読しそのあとは
書斎でつい立ち読みをしたり、
いまとなっては随分と
至るところ(トイレは絶対に除く)で
突然座り込んだりしては
"ピンポイント"で
本書のこの"深い世界"
に接している者です。

いずれ、
ある時にはわたしの
ビジネスバックの中に
入っていたり、
ベットで寝転んで
読んでは本書を胸の上に置いたまま
そのまま寝てしまったり
もすることでしょう。

そしてこの書籍はいずれ私の手垢にまみれて、
表紙も中身もくたくたになり、
ぼろぼろになるまで繰り返し
読まれてゆく筈です。(お手製の透明カバー
を付けたのも、少しでも本書のダメージを
遅らせるための苦肉の策です。掲載画像
のとおりです)

まず私に限っての購入動機は
ただ"暇潰し"のためではありませんでした。

既に本書をご購入なさり
既読された数多くの方々と同様に、
私はただ、単純にお金でこの本を手にして
"所有欲"を満たしたかった訳ではありません。

自分の稼いだ金で購入し、
すでに最後まで"読破"した方なら
ご理解していただけると思います。

"本書"は一時(いっとき)
"浮いた沈んだ"だのと
おもしろおかしく扇情的なだけで
虚偽に満ちた巷に溢れた
"タレント本"では決してありません。
"ナウ"="NOW"?とかいう
軽薄で軽率に記されSNSであたかも拡散されるような、
今時の所謂"ネタ"本の類いでもありません。

"伝説の人物"の極めて
リアルな実人生が真摯に描写された書です。

それは、
時間をかけて
熟成が行われ
ついには必然的な膨大な質量を備え
伴った情報となった。

この本を読んだ方の多くは
私と同様の思いで、
いやそれ以上に
"本気"で"真剣"な
方々ばかりだと思っています。

本書の内容とそれから
印刷・製本においても
書籍から発する
滲み出た"総和"つまり
"霊的”な"オーラ"は
そんな"覇気(はき)"溢れた読者の方々に
ぴったりだと感じています。

この書籍はそう、
あらゆる面において
深い情愛と、
とてつもない
深い"リスペクト"に
満ち溢れているといっても過言ではありません。

2021年2月。

近頃の私にとって
1番欲しいもの、
それは真っ先に
"時間"でした。

本書を精読し読破するために必要とされる
時間、それはつまり最低でも2日間という
完全に独りきりになれる
自由な"余暇"が必要でした。

煩雑で忙しい
日々の日常の隙間に
"本書"との"対峙"を
少しずつ充てがう(あてがう)気持ちに
はどうしてもなれずにいました。

そんな、収束された余暇が取れない、という
苛立ちを押さえながら日々が過ぎていました。

まるで出版社の本書の紹介の
オフィシャル動画のように、
私は何度も繰り返し本を手に取っては
"ぱらぱら"と頁をめくり、
表紙や掲載されている私にとっては
馴染み深い画像をただ
ぼんやりと"眺める"だけに努めていました。

そのあとは
いつも溜息をつきながら・・。

↑おそらくこの写真が原著の
"A LIFE"のカバー写真であろう。

自分で"馬鹿げている"と思いながらも
そんな"ルーチン"を本書を手にして
暫くの間繰り返していたんです。

そんなある日の夜。

フルボトルのワインを開けて
飲み始めの頃です。

いつものように
全く未読の"本書"が机に置かれて
いるのを見てはまたいつものように
手に取って"ぱらぱら"と"頁をめくり
活字を"眺める"という"予定"でした。

しかしその瞬間、ついに
いきなり"我慢の限界"が
弾け"ふっ飛んで"しまったのです。

書の中に刻印されている活字に初めて
自分の視力が集中した瞬間、
それから目の前の”世界"と
そして"時間"が"静止"しました。

"活字"がまるで洪水のように文章となって
堰(せき)を切ったように飛び込んできます。

その文章は簡潔で
あまりに洗練された
美しい日本語でした。

・・・かも知れない、
もしも・・・などという曖昧な
表現は殆どどこにも一切として、
ありませんでした。

どの頁も、
私にとって
とても簡潔で分かり易い
日本語に感じられました。
(中学生くらいの方ならいや、
小学生でも頑張れば
十分にご理解できる内容だと思います)

本書は"いつの時代"の
"何"を述べているのか
何もかも手に取るように
どれもがよく理解出来ました。

唖然としました。
再認識しました。
感動しました。
感激しました!
これは"知る"という
"歓喜"そのもの!でしょうか。

読み進めては頁を逆戻りし、
それこそ一進一退を続けながら、
無我夢中で
食い付き、食い入るように
"精読"してゆきました。

"手探り"でワインのボトルを探れば、
いつしかフルボトルのワインは既に
"空"になってしまっていました。
味覚を感じることは既になくなり、
ワインの味など分からぬまま、
活字の世界に"没入"していました。

ふと我に返り、
時計を見ると、
6時間もの時間が経過していました。

けれども本書の頁数は
まだ全容の半分にも達していません。

目がかなり充血していることには気がつきました。
もう自分の視力が限界に達しつつあることがわかりました。

普段の読書であったならば、
私はここで一旦、
書を手放していつになるか分からないが、
次の機会に続き=後半を読むことが
賢明なことくらい、
そんなことわかっていました。

でももう私にとって我慢の限界は
"パンドラの箱"を開けてしまった
その瞬間に完全に喪失していたのです。

"覚悟"を決めました。

もう一本追加の
フルボトルのワインを"援軍"に携えて
本書を読破する"決心"をしました。

そして"最後の頁"まで
総てを読み終えたときには
翌日の昼をとうに過ぎていました。

重い疲労感があり、
目はもう完全に霞んでいましたが、
まるで"大酒"には
酔ってはいませんでした。

むしろ頭が冴え"アドレナリン"が
大量に放出しているかのようです。

過剰に集中していた私の脳が覚醒
したままです。
猛烈に興奮しています。

そう"先生"にとっての"平穏"とは
"興奮"と紙一重の瞬間の積み重ねであって、
それは"決闘"や"武道鍛錬"や
"読書"の時間でもあったということを
ふと思い出しました。

↑私の尊敬する人物は膨大な書籍を糧にし、先人から学び、
そして大量のメモを綴る。古今偉大な男性の多くの振る舞いは

21世紀になれど一貫としており変わらない。

目眩(めまい)がするほどに
目まぐるしい新鮮さと斬新な変化は
それは一瞬"混沌"を孕んだとしても
やがて高度な集中力は或る決定的な機会を得、
"心の平穏さえ伴うのだ"と。

↑世界各国の武術・武道書籍2500冊以上。
他に哲学・思想書500冊以上という蔵書が遺された。
単なる格闘家ではなく"先生"が"ただ者"でないことがそれだけでも伺い知れる。

幼い頃から"先生"から学んできたことでした。

"大変な本に出遭った!"
と心から喝采しました!

私はとても
"満足"という
"達成感"をもの凄く
"満喫"していました。

大きな"夢"を感じました。
その夢とはとてつもない
"勇気"と"希望"です。

そして再び"先生"の
"強靱"な"主体性"に
思いを馳せることができた。

↑ブルースリー財団より引用画像。
"先生"は幼少の頃から大変な読書家であった。
ハンディがあり"先生"の視力は本当にひどい"近視"であった。

"先生"の実像に
最も接近した瞬間
とさえ感じました。

とにかく、
ものすごく
感激したのです。

本書を読破した私はもはや
"起きている意味"などなくなり、
そのあとはすぐさまベットに倒れ込むとそれこそ
夢さえ見る術もなく完全な眠りに墜ちていました。

21世紀現在。

李小龍=BRUCE LEEは
21世紀現代にとっても
世界1著名な人物であり、極めて
重大な影響力のある
"アイコン"そのものです。

とある者は幼少の頃から"彼"なりに
ほんの些細なことでも
"李小龍"="ブルース・リー"という
"生身の実像"に近付きたいと願っていました。

何十年もの間、
ずっと"先生"の"虚像と実像"
の狭間を追い求めては
彷徨い続けてきました。

つまり"私”が
そのひとりといえます。

追いかけては
追いかけるほどに
遠のいてしまうことの多かった
"先生"の実像。

自己"調査力"の限界というものを
感じるときの苦渋の思い出は
少なくありません。

可能な限り出来るだけ
多くの情報をもとに"守備"を固めて
"課題"を包囲し"先生"の実像を
追いかけようとすればする程、
忽然(こつぜん)と"先生"ご自身の姿が
霞んで見えなくなってしまうことが
度々ありました。

例えば"Tao of Jeet Kune Do"(截拳道への道)の原著("先生"が
遺した8冊のノートの編集された書)や

"Chinese Gung Fu: The Philosophical Art of Self-Defense"
(基本中国拳法)は"先生"ご自身自らが発した言葉や表現そのものであり、

または"ターキー木村"氏との
書簡=手紙のやりとりはそれこそ紛れもない直筆ですし、

ジョン・リトル(John Little)氏の書籍などでは
"先生"の生の貴重な"言葉"の数々を知ることができます。

その他には
書籍媒体以外でのメディアや
Web上で散見される数多くの
信頼出来る(できそうな)方々の
お話は可能な限り視聴してきたつもりです。

↑2020年内での極めて誠実な編集動画である。
ボクシング・チャンネルのもので"先生"のスピードと破壊力を考察したものである。
後半で再生されるオフテイク(燃えよドラゴンの撮影中)でのオフ映像において私は500回以上は繰り返し視聴した。"先生"の場合は
常に複雑なトラッピングを行っており、その打撃が目にもとまらぬ速さで直接的な決定打になることもあり、冷静に考えれば
きわめて高度な格闘家と判断でき、きわめて手強い"敵相手"となるにちがいない。

それでも常に私を混乱させいつも
困るのは"先生"の肉迫した
実人生(プライべートな生涯と実像)について、
でした。

そう李小龍=ドラゴンという
伝説の神聖なる瑞獣(ずいじゅう)で或る
"龍"の文字が刻印された"先生"は
銀幕の大スターとして
"龍"にとても拘っておられました。

その"瑞獣"に"先生"は"命を"賭けていたといっても
過言ではない。

一切妥協することなく、
数多くの賞賛と自己ベスト常に"ベター"とし、
さらにベストを尽くす為に全身全霊を注がれた。

その"英姿"は私にとってもそれなりに十分
把握=承知してきた、つもりでした。

しかし"成功"はほんの僅かな一瞬しか
"先生"には訪れては・・・来なかった。

つまり全世界が"ドラゴン"を畏敬し畏怖"し意匠の
化身となり果てその絶対性を帯びるに至る前に、その直前に
"先生"は夭逝=ようせい、されてしまったのです。

"死亡遊戯"は未完となり、
"トリビュート"映画となり果て、
永劫のループと化し”永久機関"となって
銀幕の映画のスクリーンに映えた"先生"の英姿は21世紀
の今尚"永劫"の心の不屈を讃(たた)えることとなった。

↑少年だった私が唯一、最初で最後に劇場で観ることのできた
"死亡遊戯"のエンディング。少年にとってあまりにも刹那すぎた。
この映画の素晴らしさは音楽にある。
国際版歌曲版「Will This Be The Song I'll Be Singing Tomorrow」
作詞曲 - ジョン・バリー、歌 - コリーン・キャンプの曲はこのトリビュート映画にふさわしい。
↑この動画のYouTube公開は2007年。
日本人有志に依る信じられないほどのハイレベルな"神編集"映像となる。
深いリスペクトと強い郷愁は激しい哀愁を伴う。
もはやこれは完全な作品。

そんな"先生"の
公私ともに関する"事実"="真実"が
なんとついに本書の著者である、
マシュー・ポリー(Matthew Polly)氏によって
重厚な活字量で大変理解しやすく
素晴らしい序次(じょじ)を踏んで
"時系列章分け"に"生涯"を区切り
見事に明白に明確に一冊の書籍として
綴ってくださったのです。

氏(著者)は本書に磨きを掛けるまでに、
いつしか"100万文字"(2500ページ)に達したと
"懐述(しゅっかい)"しておられます。

↑きわめて貴重な写真である。"先生"と母と兄弟4人である。
兄・ピーター(李忠琛)姉・アグネス(李秋鳳)姉・フィービー(李秋源"先生"そして母と8歳下の弟・ロバート(李振輝)

次女である李秋凰(アグネス)はなんと"先生"と双子である!!

本書は・かもしれない、
仮に・・そう思われる
・・など曖昧模糊な
表現とは無縁です。

本書での文章言葉は
大変に潔(いさぎよ)く
曖昧表現はありません。

軽快でどこか
清々(すがすが)しさがあります。

私にとって本書の内容の
細かな箇所での"真偽"は
実はまったく"厭わない"です。

これに関しては
本書を通じて"人間の記憶"というものの
不確実さというものを改めて
常に感じることとなったからです。

しかし本書のような著作物が
最終的に詰め段階(校正)において
当てずっぽうでいい加減で娯楽性を重視して
よいという訳では決してありません。

"先生"・・つまり"李小龍"は
1973年7月20日没(享年32歳)。

もう"先生"が亡くなられてから
48年もの歳月が流れているという
この紛れもなき当たり前の"事実"を
私は今改めて強く"噛みしめて"も、います。

21世紀になったいま、
"先生"と直に接しておられていた関係者筋は
それなりに"お年を召している"方々ばかりです。

ひとというのは、誰でも
記憶というのは実は曖昧です。

それはとてもすごくいい加減なものです。
誤認識や錯誤はどんな人間でもあります。

年配者だから記憶がいい加減だというだけでは
済まされないのが、
"ひとの記憶"です。

それは"罪"でしょうか?
私にはそう思えません。

仮にあくまで
たとえばになりますが、
本書でも当然ながら
登場する"先生"の愛人であった
ベティ・ティンペイ(丁珮)。

"先生"の最期の状況を
1番知っているひとである事は
紛れもなき事実でしょう。

当時彼女は26歳。
"先生"が亡くなられて
どれほどのショックがあったことでしょう。

それはファンとはいえ
"私たち"の想像を遙かに絶しています。
記憶喪失を起こしても何らおかしくない。
記憶障害が起きてなんらおかしくはない。

彼女(丁珮)は"先生"を深く愛していたことは
紛れもない事実だからです。

↑"先生"の死後、
暫く経ち"ショウビジ(ネス)から去った。
後年、仏門に身を置いた。

"先生"と彼女はそう、つまり紛れもなく、
男であり、女であったとされる。

リンダ夫人においても勿論のことです。
リンダ夫人にどれほどの絶望的で壮絶な
深い悲しみが去来したことか。

↑私の大好きな写真の1枚。

愛人であった丁珮にとっては、
彼女の立場上、この上ない程の世間のパッシング
(マスコミや世界中の"先生"のファンからの非難攻撃)
を含め仮に"1973年7月20日"の"先生"のことを"
鮮明に覚えているとご本人"が思っていたとして
公言しても、ドライに客観的に考えるなら、
その真偽(虚実)において、
その記憶は果たしてどうでしょうか。

つまりこの本は少なくとも
裁判所の法廷での証人喚問の
全"記録"書では
勿論ありません。

"談判”し白黒きっちりする事が本書に
与えられた"ミッション"=任務でもありません。

かといって著者の誇大妄想
(フィクション)である訳では
絶対に決してありません。

何をお伝えしたいかというと、
事実=真実の"目撃者"証言だけを虱(しらみ)潰しに
評価したところで果たしてそれが
読者である私と"あなた"にとって
""この場におよんで""
""将来""何のプラスになるのかということです。

↑郷愁感溢れる私の大好きな"先生"のプライベート写真の1枚

いつの時代でも
いかなる国でも
"犯罪"捜査や
"刑事裁判"でさえ
まるで"見たこともない事実"でさえ
ひとは"見た"と思ってしまったり
物事を"はき違えて信じ込んでしまう"ことさえ生じてきます。

つまり他人である第三者から
執拗に決まって同じような質問ばかり
受けてゆくと"そうした傾向"が
強まるのは紛れもないことと思われます。

幾多の記者側の都合のよい
"誘導質問"から
"そうだったかもしれない"
という曖昧な記憶はやがて
"そうだった!"と"決めつけ"になりその"事実"は
真反対となって置換されてしまうことさえあるでしょう。

ないこと(虚)が
あること(実)に逆転することなど
よくあることです。
逆も然りでしょう。

それには
悪意などありません。

少なくとも本書に登場する
多くの実在する(既に現在では
他界なさっている方もいる)
ひとの多くは
誠実な方々が多いのでは
と本書を通じて感じました。

リンダ夫人や実娘のシャノン、
愛人ベティ・ティンペイをはじめ、
"先生"の実弟であるロバート・リー、
実姉のフィービー・リー、
"微笑みの虎"と称された、すなわち
レイモンド・チョウ(2018年11月2日死去)、
ジークンドー・コンセプト派のダン・イノサント、
ロー・ウェイ、ジミー・ウォング、
ハリウッド界のフレッド・ワイントローブ、
ロバート・クローズ、ジェームズ・コバーン、
チャック・ノリス、ジョン・サクソン等、
他それは大勢・・21世紀インタビュー出来る可能な限りの
"先生"の主要関係者達が殆どの"旬"な言葉が網羅されています。
スティーブ・マックイーンや"先生"の実の兄が21世紀現代の今も
ご存命であれば間違いなく著者は"勇猛果敢"に
そして"先生"とご縁のあった故人の方々にたいしても
敬虔(けいけん)に取材なさったことでしょう。

↑画像右手のスティーブ・マックイーン
1980年11月7日(50歳没)

記憶という曖昧な"特質"=特性は
おそらくひとが生きてゆくために不可欠な
必要な手段ときわめて大事な
防御機能が備わっているのだと思います。

本当は私もまた
多くのファンの方達と同様に
少しでもどんな些細なことでも
"真実"を多く知りたいです。

けれどもとても重要なことはまた、
ひとというのはまずそれぞれ
"立場"と"道理"ってものがあります。

道理とはその者が生きてゆくためには
絶対に不可欠な"道程"です。

そんなひとたちの立場や道理も
時が過ぎ立場も変化してゆけば
発言も記憶もまた少しずつ変わったり
変容してゆくものだと思います。

当時のレイモンド・チョウ社長の立場。
当時の本妻であるリンダ夫人の立場。
そしてベティ・ティンペイ(丁珮)。
多くの"先生"の最期に携わった医師=Dr.達。

私は現在も鉄壁の信頼を寄せている
("先生"の最愛の女性としてそして
唯一"夫妻"として"相互に"多大な影響を与えた
ひとりの人格者として)紛れもなく"良妻賢母"であった
"リンダ"夫人においてさえも、

"先生"の実行為の事実が曖昧でいささか多少、
錯誤されているのではと思われる発言もあります。
(それは本書でも詳しく掲載されているオークランドでの死闘、
つまり白鶴拳を含めた伝統武術の達人である
ウォン・ジャックマンとの決闘="果たし合い"の日に関しての
まるで克明に目の前で総てを見たかのような記憶=発言が他書では存在するが
本書では固有名で"名指し"で誰がこう言ったとは決して述べてはいない)

また決して嘘を言わないひとがいたとしても
ただ"嘘を言わない"だけで大事なことを
黙っている="黙秘"しているいう場合もあります。

ある記憶はどんどん塗り替えられ不鮮明になってゆきます。
逆にどんどん鮮明になってゆくこともあり得るのがひとの
脳の可塑性(かそせい)つまり"柔軟性"や
記憶の不思議さであるといえます。

本書においては著者である
マシュー・ポリー(Matthew Polly)氏が
ジャーナリスト(記者)として"先生"とご縁のあった
数多くの関係者の方々と折衝された訳ですが、
その"取材"の"難易度"たるやもはやジャーナリストとして
"世界1"つまり最も"過酷"だったと
いえるのではないでしょうか?

さらには取材費においての
高騰され予想される経費(バジェット=予算)
をどう捻出し支払ったのでしょうか。
少なくとも"出世払い"でなかったことは確かでしょう。

取材に応じた本書に登場する方々の多くには
"先生"のことでそれこそ何十年間という間に
"記者慣れ"="取材慣れ"してこられたことでしょう。

勇猛果敢に取材に挑む"新鋭記者"にとって
いとも簡単に"追い返してしまう"程の
凄みを帯びた応対力を有す相手=百戦錬磨な方々ばかりだった筈です。

"先生"とご縁のあった"当事者"の方々にとっては
もう何百回と繰り拡げられた
世界中の記者達の質問にたいする答弁ののち、
真摯な思いと態度で発した言葉が
やがて極めて不遜に"歪められ"
不本意な状態結果となったり、
絶対に赦すことの出来ない程の
悪影響を伴ったそんな酷い影響力の高い記事になってしまったり、
ほんとうに嫌な思い出来事もそれなりにあったことと思われます。

21世紀のこの場に及んで、
李振藩に対して、李小龍に対して、
そして"BRUCE"に対して、
""おまえ""はまた同じ質問の繰り返し(取材)をするのか?!・・と。

そんな苦境難題の多かった絶壁を
ひとつずつ"ロック・クライム"し
踏破し頂上を突き破っては言葉を紡(つむ)ぎ、
マシュー・ポリー(Matthew Polly)氏はついに
最後に不屈の精神で本書を完成させ
現在の今のこの世に問うたのです。

著者が最後まで渾身の思いで
本書完成への情熱を注いでくださったこと、
氏の記者としての勇気と覚悟、
強靱な精神力と体力、しいては氏の生命力、
即ちすべてのバイタリティーにたいして私は
敬服=リスペクトし
心からいま深い感謝の思いで一杯です。

本書は私にとって確実に
真新しい"ガイドブック"
=参考書になるともいえます。

"先生"の映画タイトルにちなみ肖(あやか)りお伝えするなら、本書は
正に【猛龍過江(ドラゴンへの道)-ENTER THE DRAGON(直訳:龍の登場)】
の"書"という個人的にはサブ・タイトルをつけたいほどです。

2020年。

"先生"がご存命であったら
実年80歳となる年でした。

そして
2021年。

世界中の数え切れないほどに散見される
多数無数の"先生"の書籍とメディア。

そしてWeb上で散見される非常に高度な
世界中の有志達による膨大な編集動画。

私なんかより
遙かに造詣の深い
有識者の方は"世界"に
大勢いらっしゃいます。

しかし私は
"私なり"に、
"先生"を
追いかけ続けてきました。

そして何よりも私が望んでいたもの、
それはきちんと筋を通して公言し、
明文化(明確に文書として書きあらわす)された、
つまり"絶対的な存在"である決定的な1冊の書を渇望していました。

それはつまり"不可侵"となる存在つまり、
その書を読めばひとまずは"先生"の公私含めた
全体像の"参考文献"となる"書"が21世紀のこの世に出ることを
願っていたのです。

いま心から待望の書籍が
"誕生"したといえます。

こんなすごい書籍が
誕生するなんて・・
努努(ゆめゆめ)もう諦めていた
矢先でした。

だから"貴重"です。

場合や見方によっては今後、
"問題作"と他書と比べ
非凡な"異作"となるかもしれません。
きっと・・なるでしょう。

書籍として大作です。
"傑作"として太鼓判を押します!

断言します。
間違いありません。

原著はBruce Lee "A Life"。
June 5, 2018 (2018年6月5日)発行。

ハードカバー版は$36.04。
日本円換算で3,795円(2021年2月16日付)。
Kindle版は$12.69。
ペーパーバック版は$13.69。

Publisher(パプリッシャー)は
米国大手出版ブランドである
Simon&Schuster(サイモン&シュスター)社。

原著のタイトルの示す通り、
この本の内容は
"先生"の"生涯"が"詳細に克明"に刻まれてゆきます。

原著のタイトルには不定冠詞の"a"が付いていることから、
この"life"には可算名詞(限りのある数えられる名詞)
であることが理解出来ます。

原著は未読です。
既にweb上で発刊している情報を
私は以前に知っていました。

そして日本。

原著であるオリジナル版が発行されてから
ほぼ1年後の2019年8月23日。

ついに"亜紀書房"にて本書である
Bruce Lee"A Life"の
完全日本語訳版である、
"ブルース・リー伝"が発行されました。

本書は上下2段組という若い世代の
ネット世代ならまず絶対に
寄りつきもしないような古典的な
書籍の体裁("金井久幸"氏に依る
凄みのある装幀)でかつ
半端ない文章量と高値で
私にとって"いつでも買える"と
達観していました。

しかし初版本(第1刷2019年9月20日)は気がつけば即完売。
大型店舗のどこの書店にも存在せず、amazon、
楽天、Yahoo!、セブンネットショップを
探せど完売。さすがに焦りました。

結局、私が購入出来た書は
2019年11月4日第1版第3刷でした。

"先生"がご存命であったら
丁度"生誕80周年"のお祝いに
きっと間に合わせたかのように
早期に日本語版が出版されたのです。

その昔"先生"という"存在"そのものが
"国内輸入"されたのはアジアン諸国において
最も遅かったのが日本。

本書は"電光石火"にて
和訳編集され出版され、
世界に先駆けて"汚名"挽回です!

日本語翻訳者は
棚橋志行(Shiko Tanahashi)氏。

日本では著名な作品である
映画"セブン"の原著和訳や
ザ・ローリング・ストーンズのギタリストである
キース・リチャーズ自伝書の翻訳や世界的に有名な格闘家の書など
海外の重要な英文書籍を数多く和訳された
極めて信頼のおける翻訳家の方です。

私としては現時点において
本書においての棚橋氏の翻訳は原著内容と照会して精査
している訳ではなく、誤訳等は判断出来かねておりますが、
まず非常に日本語として美しく、
そして平易で読みやすく極めて高く評価します。

簡潔でそして平易で誰もが読める日本語で
ありながら、時に非常に日本人でも
難解とされる漢字熟語が幾つか見受けられる点においては、
私は氏の熱意(数多くの和訳上でのキーワードを必死で
熟考したうえで苦慮し最終的に選択していると思える点)は
"大御所"でありながらも、そのお人柄とプロ意識の高さに
きわめて好感が持て、信頼のおけるものです。
(たとえば日本人でも難熟語として、刎頸(ふんけい)の仲、
であったり、慚愧(ざんき)の念、同衾(どうきん)等々
逆に"ぶっちゃけ"という大胆な日本人にしか到底理解できない表記を行うなど
斬新で意欲的である))

確かに映画タイトル名をそのままカタカナ表記する等あるものの、
原著の核となる重要な記述においては
真摯な誠意ある態度と翻訳にたいする意気込みを感じ、
最大評価しています。

余談となりますが、
私個人的には"書籍"にたいする
誤字や脱字や印刷上での誤植は大目に見る者ですが、
1点、明らかに"誤記"と思われる箇所があります。

読者の方で本書を手に入れている方であれば、
ご理解頂けるかと思われますが、本書の
509頁の左上、「痛みがひどくなったため、七時半にベティが
アスピリン三二五グラムとメプロバメート二00グラムから成る
精神安定剤を提供した-軽度の筋弛緩剤でもある。」という部分の
数値です。325"グラム"と200"グラム"という数値は異常な値です。
これはミリグラム(mg)の間違いかと思われます。大変重要な箇所
のひとつですので、この部分は是非次の増版では直して欲しいです。

日本語版となった
本書"ブルースリー伝"の金額は5940円。

内容は活字ばかりの新書の書籍。

本書は再販の目処がたっていない
"絶版本"などでは勿論ありません。

今時の現代の日本の物価事情を考えてみれば
決して"安くはない割高に感じる商品"=金額でしょう。

個人的には書籍という"商品"には
昔からかなり"甘い"ところがあります。

学術書を含め、
少なくとも5000円前後迄は
掛値なしで購入しています。

しか本書は一般的には
どうみてもこの値段(約6,000円)は高すぎる!と
購入当初は感じていました。

しかし其れは本書を
"ぱらぱらめくって眺めていた時"迄でしたね。

今となっては逆に
もう少し高くてもよい(6800円定価で税込7500円でも
かまわない)ので活字部分の紙質にもっと拘って頂き、
"タフ"なパルプ素材を使用して貰えたら良かったと
さえ思っているほどです。
(手垢まみれになる可能性があり"耐候性"という面においてです)

本書はやがて私にとっても
値段云々ではなく
掛値なしに文字通り"幼少時代の自己本質"=
ひとが生まれ持った"初心"に帰還できる
座右(こころに常にとめておく存在)としての
"バイブル"=としての必読書となるでしょう。

濃密な情報量を備えた"先生"の
"ガイドブック"が和訳されたことは
もはや今の私にとって"奇跡"です。

"百尺竿頭"(しゃくちかんとう)、
つまり実在人物の伝記書では
"到達しうる極限のひとつ"の
"結晶のような作品"といえます。

翻訳出版物の場合は"アドバンス"と
呼ばれる印税前払金(advance royalty payment)を支払い
1冊の海外書籍を日本語に独占的に和訳出版する権利を手に入れることが必須です。
それを踏まない場合は俗にいう"海賊版"となります。

本書のように世界的な
"アイコン"である李小龍=BRUCE LEE"先生"のような
"超"が付く"メジャー・ビック・タイトル"を他社と
激しく競って入札するとなれば、
落札する為に相当なコネクションが必要となったり
高騰したアドバンスを支払わなければならない場合が生じる筈です。
また一流の翻訳家への報酬も当然必要です。

そうした諸々の諸事情を考えると、
この本の値段は実に安価であることに
気がつきます。

本書を読破し改めて
"先生"が32年間という
極めて太く短い生涯であったということ、
それは世界の誰よりも充実のある人生="とき"を
過ごされたということを
痛感再認識しました。

ひとの2倍も3倍にも匹敵した
"先生"の"A LIFE"。

そろそろ末筆ながら、
本書の素晴らしさを
"ディティール"で
記させてください。

なお、これから読まれる読者の方々の
ために出来る限り本書に記された詳細内容は
引用は当然のこと、可能な限り、曖昧表現
に努め配慮します。

まずはリー・ジュンファン=李振藩
からリトル・ドラゴン=李小龍になるまでの
華国(当時の香港)の事情。
明確で理解し易く本書は
特筆できる点です。

↑幼少時代

どの書籍よりも素晴らしく明瞭で、
"先生"の生きた幼少から少年時代の箇所だけでも
実に読む"価値"の高い書籍であるといえます。

次に個人的には本妻である"リンダ"夫人と出会う前の、
"先生"が心底これはもう本気で愛した
"日系人の女性"についての箇所です。
この女性に関しては、
さすがになかなかリンダ夫人の書籍でのお言葉では
詳しくは述べられていない"要所"ですね。

↑この 断固たる理念に基づいた構成は
ほぼ完全に"当時の彼女"に伝えていた。
感動というよりも戦慄すら覚える。

本書で"彼女"=その女性のことをきちんと伝えてくれたのは
私にとって凄く感激しました。

"先生"は本当に(心底惚れた女性)異性には
もう"ハチャメチャ"に無骨ですね。
スノッブ=紳士的では少なくともないw。
そうした実直な"先生"のお人柄にまた本書を通じて
触れることができたことも凄く新鮮で心地よく嬉しかった。

なぜ将来彼女との関係が
"不実"に終わったのかも
本書では端的に"クール"に綴られています。
私にとって最高な箇所でした。

先述した"先生"の愛人恋人である
ベティ・ティンペイ(丁珮)のことは勿論のこと、
シャロン・ファレル、ノラ・ミャオ(苗可秀)=本名(陳詠嫻)を
含め多数の女優や多くの女性関係のことも非常に詳しく掲載されている本書は
"先生"のかねてからの女性ファンにとっても
"スキャンダラス"な内容満載でこれは読まずにはいられない
"マスターピース”(批評的な価値が高い)であることは
間違いないでしょう。

そういう点でも至って非常に"華やか"な"伝記"="評伝"書といえます。

↑当然"プライベート・フォト"ではなく"危機一髪"の映画でのオフ・テイクとなった箇所

そして本文では先に既に少しだけ触れましたが、
オークランド時代(振藩國術館)の頃のあまりに有名な
ウォン・ジャックマンとの
"果たし合い"=決闘においても
詳しく頁を割いて記して
くださったことは実に素晴らしい。

↑ブルースリー財団より引用画像
1964年オークランドにて生徒達と"先生"。
↑若かりし頃のウォン・ジャックマン

このあたりは特に先に述した通り、
ひとの立場や道理というものが事実(真実)を
曖昧模糊にしてしまうことがあるということ、そして
ひとの記憶という曖昧な"特質"=特性が事実(真実)を遠ざけて
しまうという紛れもなく顕著な私の個人的持論を
特に強く述べたい="特筆したい箇所"=※"オークランドでの決闘"となります。
太極拳、形意拳、北派少林拳のグランドマスターであった"ウォン・ジャックマン"
と詠春拳のブルース・リーとの20世紀最も著名とされる私闘を指す。"非公開"であった。

↑若かりし頃のウォン・ジャックマン。
Wong Jack Man (born 1941 – December 26, 2018)

おおむねこの箇所においても
私は本書の内容自体を"支持"していますが、
真偽そのものは、実は今の私にとっては
もはやあまり意味のないことです。

オークランド時代で実際に生じた
"格闘"=決闘に関しても
そもそも当時の中国武術界に担がされて
"罪"などないある意味"被害者でもある"
ウォン・ジャックマンとの闘いにおいて、
仮に"先生"が武闘試合的にみて万が一
完全打倒されたという新(真)事実がもしあったとしても
私にとっての"先生"にたいする
敬愛や評価がいささかも変化するものではありません。

この"事件"を機に"先生"が精神性および思慮をさらに深められて
"TAO"="道"を極められていった事実は揺るぎようがないからです。

↑ブルースリー財団より引用。
現代のJKDのエンブレム。

それからとても大事な側面ですが、
本書が格闘家や武術家にとって価値を見つけることができるか?と
いう点です。結論から申して、総合格闘技の先駆者であった
リー・ジュンファン(李振藩)を学ぶ絶好の機会であると断言できます。

この書籍はずばり、武道の初学者レベルの方
よりも、ブラックベルト=黒帯以上の方、もしくは
流派を超えて武術や格闘を捉えている師範クラスの道場の経営者の方々
にとっても一読に値するふさわしい内容だと思えます。

↑詠春拳葉門のイップ・マン師傅と"先生"の画像を編集していると、
妙なものが映し出された。
上記のこの画像(今から58年前の1963年の夏に撮影されたとされる)はその書籍から(本書籍の67頁に該当)この私自身がデジタルカメラで近接撮影したものである。

撮影で使用した""光源""はカメラのフラッシュを一切使用せず白熱灯タイプのLEDである。
LED色は暖色系の橙色。世界的に有名な"イップ・マン"師傅とブルースリーの画像の1枚だが、
この"チーサオ"の練習風景と見られる画像の右上に是非とも着目してほしい。モバイルユーザーの方にとっては、

はっきりとは見え難いかもしれないが・・いったいこの"渦を巻いた"ような""模様""は何だ!?
"李小龍"の目の前にあたかも"水面のさざ波の様な模様"が克明に浮き彫りされれている。 私は初めてこの写真の""渦""をみている。
自分の撮影したこの画像をプロジェクターにて巨大投影してみると・・信じられない!!身の毛が総毛立つにいられなかった!
"葉門"師傅とブルースリーの上半身をほとんどすべて覆うようにあたかも"Yin-Yang"=陰陽(森羅万象、宇宙のありとあらゆる事物の流れの如し)がふたりを巻き込んでしまっている!!
写真の専門家であったら科学的に明白な原因が分かることかもしれないが、少なくとも私は世界的に著名なこの1枚の画像を過去何千回と見てきたが、この"渦"に初めて遭遇している。

少なくとも私は"誓って"この画像を"加工"してはいない。そもそもこんな高度な"写真加工技術"を私は有していない。
"リアリスト"である私は、誰かによる(著者ではおそらくない)細工=加工によるものと考慮した。
では誰が?!いったいどのタイミングで?!。書籍をある意味"神格化"するために編集過程で"誰"かが何か手を加えたとでもいうのだろうか。
本書67頁目の画像をどんなに拡大鏡で肉眼で見たところでこの写真に"渦"など何処にも見当たらなかった。
理由はともあれ私は非常に強い感慨を受けずにはいられなかった。

他書と比較しても意味はないですが、
私は本書を読み終えた際、極真空手の創始者であり
総裁であった評伝書、小島 一志と塚本 佳子氏の
渾身の力作である"大山倍達正伝"を想起しました。

640頁にも及ぶ、凄まじい活字の情報量であった
"大山倍達正伝"は、
はっきりいって読む相手を"選び"ます。
興味本位で読める内容の書ではありません。
生半可な気持ちで、読書したところで、価値のある時間を
過ごすことはできないでしょう。この大作は前半が塚本氏、
後半が小島氏が執筆という二人の著者によって完成されています。

本署を読破したあと"大山倍達正伝"をすぐに想起した理由は、
両著ともに圧倒的で誠実である、という点です。

読みやすさの点においては、
完全に"ブルース・リー伝"が勝ります。
これは棚橋志行氏の翻訳がきわめて優れているからでしょう。

役者としての"先生"の映画ファンの方々にとっても子役時代から
19歳で不良少年を演じた主演作品"人海孤鴻"(1959年)をはじめ、
時系列に沿った本書の"流れ"は申し分のないほどに
非常に明快で分かりやすい"詳細内容"といえそうです。

↑個人的な調査では渡米前の10代迄に出演した映画本数は19本。
"先生"は生粋の役者であった。

(書籍の最初のほうの頁では幼少時代の出演なされた映画時代、
徐々に中盤から後半にかけては
"等身大"の李"小龍"主演映画から

文字通り"龍”=ドラゴンの"化身"と化した
"Enter the Dragon"(龍爭虎鬥=龍争虎闘)の詳細説明という風に)

こんな風にして、
本書の素晴らしさを伝えたいと願うならば、
紙面が幾らあっても足りませんし"キリ"がないかもしれません。

あ、そうです!
とても大事なふし(こと)を思いだしました。

私が本書を最も信頼する(した)決定的な点を述べさせて下さい。

それは"先生"が時に"相手"をナイフで相手を脅したり、
銃を携帯していたという"新事実"でもなんでもない、
そんな当たり前の"事"もまたきちんと克明に本書は
"記して"くださっていることです。

↑私個人的にはNo.1といっても過言ではない、"危機一髪"に続き"怒りの鉄拳"においても監督を務めた。
ロー・ウェイ は元来、俳優でもあった。"怒りの鉄拳"においては"警察署長"を演じ名演(快演)であったと個人的には評価している。

私の本書における信頼度は
そうした内容で最高潮に達した所以(ゆえん)となります。

"先生"の識者方々
に畏れずわたしなりに記すならば、
"先生"は無駄なことや無意味なことを一切嫌う
とても合理的な人物でした。
つまり"リアリスト"な方でした。

"先生"は妄信的な格闘マニアではなく、
かつ人間の精神力のみだけを重んじる、
カルト、つまり精神論だけを重んじる
崇拝者でもありませんでした。

"先生"にとって無礼かつ評価に価しない相手にはあえて
武力("先生"ご自身の極められた"徒手空拳")を行わなかった。

"先生"の武"道"を行うに値しない相手には
頑固とした態度(ナイフや拳銃も厭わない)を
とられていたのだと思います。

"先生"の極めた"道"は相手次第では"活殺自在"でありながらも
無意味な相手、無礼極まりない相手や暴漢にたいしては
"先生"にとっての"真剣勝負"ではなく、
いたって"道理"にかなった無駄のない手段を選択したのです。

それを決定づけたのはやはり、
あの"凄惨な事件"からだと思われます。
このことも本書は余すことなく"静か"に記載してゆきます。

つまり"先生"が10代の香港時代のストリートギャングの頃よりも
遙かに"先生"にとって身に詰まる程の
"相手(敵)からはまるであたかもガラス越し、
しかし逆に正体不明なまるで見えない相手を敵にする"という、

非常に危険でタイトな境遇=経験=重大事件が起きたのです。

その事件のことも本書では詳しく述べられていますが、
つまり"マンソン・ファミリーによる殺人事件"
近年では"タランティーノ監督”で、
"レオナルド・ディカプリオ&ブラッド・ピットの初共演作品”として著名な
"ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド"でも知られる、

↑"タランティーノ監督”のこの映画は完全なフィクションで史実とは異なる。
更に"先生"の描写はあきれるのを通り超して、失笑してしまうほど。
ただ映画作品としては、もし"こうだったら・・"いいのに・・と思わせてくれるそんな良い映画でした。↓
↑TVの液晶画面。本映画のDVDを見終えると、こんな静止画像が。

つまり"シャロン・テート事件"といわれる1969年8月にハリウッド界はおろか
アメリカ国中を含め全世界を震撼させた20世紀を代表する歴史的事件のことです。

ロマン・ポランスキー監督("先生"の生徒)の夫人であり
女優のシャロン・テート("先生"は彼女の演技武術指導家)が
妊娠8ヶ月の身体をズタズタに切り裂かれ
ハリウッドの自宅で友人4人とともに惨殺された事件です。

玄関のドアにはテートの血液で“Pig”(豚)の文字が
記され5人の死体の合計刺し傷は102を数えました。

翌日にはロサンゼルスに住む
ラビアンカ夫妻が残忍な手口で殺害され現場には再び血染めで書かれた
“Death to pigs"(豚に死を)さらに
“Healter Skelter”(Beatles楽曲の「Helter Skelter」の綴り相違文字)。
1969年末にようやく逮捕されたのは"チャールズ・マンソン"とその信者=ファミリーおよそ20名。後年、
1960年代から生じたカウンターカルチャーの"闇"部分の象徴的な人物と呼ばれる者が起こした事件です。
さらにマンソンは際立った"人種差別主義者"でもあったのです。

"先生"にとっても当時この事件のショックは
秤りしれないものがあった筈です。

ポランスキー監督も奥さんの
テートも良く知っているどころか武術指導をしていた間柄。

↑監督とテイトの著名な結婚式での写真

さらに深い"人生相談"をして"先生"を助けてくれ
当時の先生にとっての人脈作りに多大な貢献してくれた
文字通り"キー・マン"のひとりでもあった
カリスマ・ヘア・スタイリストで"超"が付くほどどの有名な
"ジェイ・セブリング"もまたその夜シャロン・テートと同様に惨殺されたからです。

↑"先生"にとってもよき理解者であり重要な人物であった
35歳のカリスマ・スタイリストはなんと!数年前にシャロン・テートと婚約していた。
ロマン・ポランスキー監督に"その座"を譲った。ジェイはテートと親友であり続けた。
彼は"殺戮のその夜”に彼女を文字通り命を賭けて彼女を守り抜こうとした。
だからこそ彼は残虐に殺されるに至った。

スティーブマックイーンもその事件の夜、招待されていた。
"先生"が"万が1"もし、その場に同席していたら
ほんとうに取り返しのつかない
人類にとって極めて危篤で重大な
"損失"が生じた可能性があります。

つまり"先生"の人生が1969年で終わってしまっていたら・・
これはさすがに改めて"戦慄"を覚えた箇所です。

そうしたあらゆる箇所においても
"先生"のことにお詳しい方であればどの頁の
どの時代のどの瞬間からでも
"没入"できてしまう、そんな書です。

また"先生"のことを最近大好きになったりして
本書を購入なさる予定の方、最初は"濃厚接触"
過ぎて目眩(めまい)が生じてしまうかもしれないから、
好きなところ(興味ある箇所)から読んでいっても至って
"寛容な本書"はきっと"あなた"の期待を裏切らないでしょう。

ユーラシアン(Eurasian)つまり、
欧亜混血(おうあこんけつ)人であった
"先生"は香港や詠春拳との確執、
アメリカ在住中でさえ絶えず様々な差別や区別や誤解と遭遇し
協調(和協)に向けて"粉骨砕身"(ふんこつさいしん)なされました。

"先生"は生まれながらにしてあらゆる
"アイデンティティ"を
所有出来ぬ境遇にお生まれになった。

だからこそ"人種問題"など軽々と超越して下さった"先生"。
それは私にとっては、
単に中国華人としての中国ナショナリズムの体現者だけでは
決してありません。中東諸国、ロシア、欧米、すべてのアジアン諸国を含めた
21世紀現代、"先生"の遺した生き方や理念は
私にとって人類変革を示唆しているといっても過言ではないのです。

いま、私はさきに軽率にも
"軽々と"とはいってもどれほどの
苦難が"先生"に生じていたことか。

↑"先生"は多くの身体的な"ハンディ”=障害を克服してゆきました。

私にとっては読んでいて、
胸が苦しくなって
張り裂けそうに
詰まる箇所も
実は多々あります。

"先生"は一切の偏見や誤解(人種・国家・民族・宗教・東西・南北など)
しいては社会的階層の隔たりから生じるあらゆる総ての
"矛盾"に架け橋(ラポール)をかけてくださいました。

本文の冒頭で記したように
"映画界のみらなず今尚、
全世界に人類変革の希望と可能性を
絶えず指し示し続けて"くださっている、
とはつまり"そうした"先生"の生き方すべて"です。

"先生"は不毛で根拠のない
権威や権力には徹底的に文字通り"刃"=歯向かいました。
銀幕の"先生"が演じたヒーローつまり、その
英雄達はそのまま"先生"の生き方と深く密通していました。
そして、"先生"は後輩や立場の弱い者に対しては
本当に思いやりがあって優しかった。

↑あまりにも有名な首の骨を折られるシーンの"ジャッキー・チェン"

この際だから、
はっきりと述べさせてください。

争いや憎しみ、
そして相手を嫌うことは
誰でも簡単なことです。

それはいかなる人間以外の
"下等"と生物学的に呼ばれる
他の動物とも共有しています。

"怒り"はどんな生物学的な
"下等"と呼称される
動物の頭の中に常にあります。

"先生"は文字通り、
命を懸けて首尾一貫として
その身を削り落としてまでも、
どんな諍(いさか)いが
あろうともその"メッセージ"を生前
全身全霊を賭して
送信し続けておられた
"理念"がありました。

そう・・

"分離ではなく一体にある"

その一言です。

"他者と一体であれ"
でした。

単純に好きな相手となら容易なことでも、
それは決して簡単なことではありません。

相手が宿敵であったり、
心底憎む相手であれば、
なおさらのことです。

すべての事象は分離したままでは
決してありえ"ない"という流動的な
非常に尊い思想であり、啓蒙的(初学者にとって
あえてわかりやすく教えてくださっている)な哲学です。

"先生"のお言葉は肝心な部分は常に"啓蒙的"でした。

さすがに
"先生"らしいのは、
そのこと(分離したままでは)に付随するたとえでは、

・・前略・・
"拳を胸に突き通すことも、
首を折ることも、
目玉を抉(えぐ)り出すこともできない・・"と。

これは・・ネタばれな箇所です。
本文で割愛した詳細内容は無論
明確に記されています。

"先生"のことを
単純にアクション俳優とだけに思っている方、
そんなひとこそ、もしもふとしたチャンスが
あったなら是非とも"書"を手にして頂きたい。

または、
"あなた"にとって大事なひとが
もしも人生の岐路に立たされて、
読書などする暇もない状態なら、
そっとこの重厚なプレゼントを
"あえて"お渡しして頂けたらなと思う。

世界的にあまりにも著名な人物の
しかもこんな分厚い書籍を
相手が貰ってはなはだ
迷惑に感じるのではと危惧される
かもしれません。

しかし、そんなある日の
ある時にあなたからのこの
"プレゼント"をふと手にし、
それこそ何かのはずみで、手にして
何かを感じ読み取って頂けたなら、
そのひとにとって超えがたいと思っていた
目の前に立ちはだかる障害を
乗り越える"可能性は高まる"かもしれません。

本書の書評には似つかわしくない、
こんな序次(じょじ)の曖昧な
為体(ていたらく)なわたしの
文章をお許しください。

最後まで本文を読んでくださった
"あなた"のご厚情を
心より深く感謝します。

またこのレビューは漢字表現が多いため、
英訳することは今後も
できそうにありません。

小学生・中学生の方にも本文を読んで頂けるよう、
漢字には可能な限り"ふりがな"を付けさせて
頂きました。(そのことも私にとっては
とても意味のあることです)

多くの貴重な"あなた"の
お時間をちょうだいできたことを
わたしは心から誇りに感じます。

雑多な文章ではなはだ恐縮の限りですが、最後に
著者であるマシュー・ポリー(Matthew Polly)氏に
心からの出版の祝辞・謝辞、
そして日本人読者としてのファンレターに
かえさせていただきます。

私は"あなた"=氏の
"著者あとがき"で決定的な
深い感銘を受けました。

"本書の内容と分析と結論は
"すべて(は)私ひとりが行ったものだ"、と。

本書を強く激しく、
精読してゆくうちに・・
いつしか涙がこぼれ落ちていた。

著者が自ら"責"を負うその凛々しさに
私は涙を流すほどに深い感慨を受けたのです。
さすが"武闘派"のジャーナリストの方ですね!

ほんとうに、
ありがとうございました!

【結-あとがき】

本書でのレビュー=評価"評論"ではあえて
詳細に触れず意図的に記さないように
意識して努めていたことがあります。

それは"先生"の"死因"に関連することです。

世界中の"先生"の
大ファンの方々と同様に
"先生"の"死因"に関しては私も
自分なりの"意見"=持論があります。

カンナビノイドによる悪影響、
つまりマリファナとハシシ(ハッシュ)の過剰摂取による死が近年では最有力視されている。
このコンセンサス="consensus"・・果たしてどうであろうか?!

この"件"に関しましては、
今回の記事にはふさわしくないと感じ、
書籍のレビューとは
完全に"区別"したほうがよいと判断しました。

その思いは本文を記述する前から生じていました。

"先生"の"死"とは
マリリン・モンロー、
ジェームス・ディーン、
ジョン・レノン、
ジミ・ヘンドリックス、
エルビス・プレスリー、
ジム・モリソン、
カート・コバーン、
マイケル・ジャクソン、
プリンス(ネルソン)etc..

20世紀"V.I.P."の中でも
その死因の著名度と真相究明の困難さは
アメリカ大統領"ジョン・F・ケネディ"
暗殺に匹敵しているといっても
言い過ぎ=過言ではないでしょう。

21世紀現代。
皆さん誰もがが分かっている(感じている)ことはおそらく、
ケネディはあまりにも巨大な存在に""暗殺""されたということ、です。

"先生"のケースは
"脳浮腫"によって死亡したという事実です。

両者にとって世界が着目している納得出来ない最大の理由とは、
その直説的な"死因"ではなく、
つまり"どうしてそうなったのか?!"という"原因"の究明です。

私の考察はいずれ
完全"告白"=独白いたします。

現在"校正作業中"です。

↑紛れもなく日本を代表する有志の方による21世紀の神編集。

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