【活殺自在!!-霊処浄域】!!-“鎌倉観光”-“秘所”-“存在と時間”-“ハイデッガー”-陣出の”泣塔”其の3-“再び”!!
【ご挨拶】
2020年10月2日正午過ぎに撮影した陣出の"泣塔"のお写真とそれに伴った写真は記事の巻末に記載させていただいております。自宅に帰りほんとうに"驚くこと"がありました。私はこの日,多くの動画撮影も行いました。
Nikon COOLPIX B500とSONY HDR-MV1の"ハンディカム"を使用しました。
COOLPIX B500では望遠(柵の外側から)にてズームし"宝篋印塔"のお姿を捉え続けました。ほかでは前回の訪問と前々回の訪問での動画撮影を行ったSONY HDR-MV1も使用しております。自宅に戻り真夜中,データをPCにダンプ="送信”し終えたところで・・保存データの"何か"がおかしい!!ほんのわずかな写真だけを残したのみで
撮影した動画の全てが・・"真黒"だったのです!!
音声も画像も一切撮影されておらず,録画した時間だけが経過しSDカードに"黒く"塗り潰された様に記録されていました。こんなこと、絶対にあり得ません!信じられませんでした。液晶画像を把握し操作を確認しながらの撮影中の間も一切のトラブルもなく機材は"点灯"していた。
データのダンプ中ですらMicro SDカードはたった一度も"error"を吐くこともありませんでした。Nikonカメラの動画もSONY HDR-MV1も同様に"真黒"になってしまうなんて・・そんな""話""は,
デジタルの"01"の二元論の技術上まず絶対に"現実的にあり得ない"ことなのです。私はとても"混乱"しました。
得意な分野での"業務音響機器的な考察"からアプローチし,このあり得ない"保存データ"の現象を推察しました。
しかし答えは・・ありませんでした(※注)。咄嗟にPCに保存された各データを"右クリック"し、
プロパティを見れば、"真っ黒"な録画データはしっかりとした保存"容量"を"保持"していました。
わたしは、途端に,近年感じたことのないほどの"恐怖"を感じました。
本当に触れてはいけないことにもしや"触れてしまったのでは"?という恐ろしい"後悔"を覚えたのです。
暫くの間呆然として・・急に激しい寒気を感じ"総毛立ち"ました。が,私はすぐに"納得”=冷静になりました。
この一帯は即ち"霊処浄域"なのです。地元に育ちながら生まれて初めて私が"泣き塔"のお姿を拝観したのは近年のことです。"偶然と偶然が重なり"必然となったとき、"泣き塔"に接するたびに、私の理解と感覚の範疇を超えるような出来事がありました。私は"あの世"も"霊魂"も信じていません。"死"でさせひとの生の中に存在する"観念"として位置づけており(別記事で深く掲載しています)ましてや、子供の頃のように何でもかんでも?信じていた頃とは真逆な人間になっており、神も仏も信じていない"無神論者"でもあるのです。しかしながら、そんな"私"の身の上に起きる事柄には、私のそんな信念や考え方では到底説明のできないことがあるのもまた"事実"です。
1と月ほど後のつい先日、その出来事(撮影した動画が全て黒く塗りつぶされた現象)がずっと気になっていたので、私よりも遙かにカメラやデジタル動画録音に詳しい方に今回のケースについて質問しました。
"技術的(メカニズム)には絶対にあり得ないということは、ないだろう・・"という回答でした。
ただし、機能的に不具合があってのことだそうです。またカメラそのものに問題はなくとも、メモリーカードの品質次第では例えば写真撮影の際、何十枚も連写した際にメモリーの読み込み精度が低くて、何枚かが"コマ落ち"したり、保存されたデータが壊れたりするケースはあるとの回答でした。しかし、
今回のような動画撮影の場合はどうか・・。Nikon COOLPIX B500に関しては、写真は保存出来ているが、動画撮影そのものの機能に何らかの不具合があるのではないか?という指摘を受けました。実はその方への質問は"Nikon COOLPIX B500だけの話"にしていたのです。私はSONY HDR-MV1(動画録音)のハンディカムも使用していました。そして保存データはすべて黒く塗りつぶされ、同様の症状が生じていたのです。
"もう一度、同じメモリーカードを搭載して、動画撮影をしてみたら?"と言われました。
"・・・それで、正常に動画のデータが保存されていたら<<怖い>>ね・・・・"と言われたのです。私は返事できなくなった。つまり、その検証=テストはもう既に済んでおり2台ともいたって"正常"であっのです。
(※注)いつものことなのですが"記事を投稿し終える"とその内容を頭のなかで反芻する癖があります。少しでも嘘や間違いがないか考えるのです。ここまで今回のような"完全に異常と思えるような現象"は私の人生でもありませんが,それに似た音声に関する"普通では考え難い"と思えた出来事を思い出しました。ただ、もう30年以上も昔の出来事となると"たった一日"くらいでは詳しいことを思い出すことって不可能でした。改めて校正し直して
本記事の最後に「追記事例」として可能な限りあの"事実"もお話ししたいと考えております。
この日は快晴で現在の州崎=深沢地区も"泣塔"も穏やかに感じました。"森"の中に常駐していた鳥といえば,一匹のカラスが"大声"でなにか喚くように飛び立ってゆくだけでした。手術後の現在の私の瞳の"遠視力"はそのカラスが着地する場所を確実に確認しました。およそ1㎞ほど彼方の"湘南モノレールの高架レール"に集まっていたカラスの大群の群れに翼を閉じてそのカラスが紛れ込んでゆくのが見えました。
"泣き塔"にはいつも決まってカラスが必ず"常駐"しています。カラスは泣き塔の森と深い"縁"があります。
というよりも"あるカラスの群れ"が昔から"棲み家"として棲みついているといった感じを受けます。
"カラス"は鳥類の中で最も知能が発達しているとされています。
社会性を持ち協力しあって鳴き声に依る意思の疎通を常に頻繁に行っているとされています。
遊戯行動(電線にぶら下がったり挙げ句には,公園の"滑り台"を滑ったり"雪の斜面を仰向けで滑り降りる"等,
その環境適応能力は人間と大差ない)が"ずば抜けて"いるのです。そして"優柔不断"です。
"4色型色覚"で色識別が出来,
人間と同じ"RGB"認識に加えて紫外線を識別出来るのは人間の能力を超越しています。
人間の個体さえも完全に区別して認識していると謂われる所以です。
これは私の完全な根拠のない"妄想"ですが・・"泣き塔"に向かうと普段の感覚とはまるで違った"誰かに監視されている"ような感じを受けます。
つまり"カラス"にです。"泣き塔"の"岩盤の森"にはカラス以外にも鶯(うぐいす)やほかの鳥達もたくさんいます。
しかし私の"妄想"では"オレたちの陣出の森に目玉が幾つもある(つまり複数のカメラと私の両眼のこと)"いかがわしい生き物"が来ているぞ"・・とそんな伝達を"仲間達"にしているのではと,
ふと感じてしまう自分がいます。さらに"泣き塔のカラス"は"縄張り意識"が猛烈に強い,そんな"気"を受けます。
それ程に私にとって"この場所"は"霊処浄域"であってまず"普通の感覚"ではいられなくなってしまうのです。
けれども私のような"鈍感"な男はまるで気がつかない事柄や察知できないようなことが"数多くある筈"です。
そして元来私にとっては幼少の頃から何が起きてもおかしくはなかった"一帯"であったということでした。
2020年10月2日(金)。
私は所属している会社を"通院"の為
"有休"届けを出して休んだ。
国立久里浜病院まで車で往復100㎞弱。
いつも通院するだけで骨が折れるけれどご縁あり,
こうして"寛解"出来ているのは私の努力ではなくて,
世界的権威であるDr.が適切な検査と指南を患者で
ある私にいつも助言してくださっているからに他ならない。
だいたいはいつもその病院への"予約日"は天気が悪い。
なのに今日(2020/10/2/-fri)は珍しく快晴だった。
病院の帰りに自動車を運転しながら,ふと
自分の生まれた地元に或る,
あの陣出の"泣塔"の"宝篋印塔"のお姿が脳裏によぎった。
最近・・"お目に掛かかれていない"な・・と。
私が生まれ育った故郷,鎌倉の洲崎=深沢は
日本史上,1333年(元弘3年)
新田義貞の鎌倉撲滅の際の"激戦場と化した"場所である。
↓下図↓の航空写真をご覧いただきたい。左側に"焼け野原"の様な場所がまず目につくのではないでしょうか?
そう,この場所が"州崎の戦い"と謂われている場所です。2020年の現在でも,あり得ないことにこの地の開発はいまだに進んでいないのです。赤い♡マークのある場所が"陣出の泣き塔"が存在する場所となります。
(新田)"義貞"は堀口貞満と大島守之を州崎に攻め込ませ、
これを十六代執権赤橋(北条)守時が迎え撃った。
私は日本史学の研究家ではないが,
"守時"の決死の思いを想像すると激しく胸が痛む。
私よりも遙かに精通なさっている方のサイトから
是非引用させて頂きたい。恐縮ながらこの場を借りて
謝辞とさせて頂きたい。
↓この図を見れば"明白"である。
北条守時は鎌倉幕府の歴史上最後の16代執権である。
北条氏赤橋流だったことから"赤橋守時”とも現代でも呼ばれる。
父は浄光明寺の本尊・阿弥陀三尊を造立した北条久時とある。
↑上図を見れば一目瞭然であるが,
守時の妹(登子)はなんと!足利高氏(尊氏)に嫁いだ=奥方,
つまり"正室"なのである!
1333年(元弘3年)、
高氏(尊氏)が鎌倉幕府を"完全"に裏切ると
高氏の外戚(守時の実の妹は妻)であることから守時の幕府での立場が悪化した。
つまり守時は高氏の義兄である。それがやがて彼の立場を猛烈に苦しいものとした。
そうした厳しい事情は戦国時代において当たり前の事であったろう。
いや,21世紀の現代であれ,同じだ。
執権でありながら、
幕府打倒を掲げた高氏に"完全"に通じているではないか?と。
なにせ実の妹が高氏の"嫁"なのである!
特に得宗家や長崎高資らにすれば
守時に非常に強い疑いの目を向けたのは当然といえよう。
日本史上の武家社会においても
"赤橋守時”の"妹"=登子に対するあまりにも深き兄の愛情は21世紀の現代を
生きている私の心さえ激しく揺さぶる。あまりにも"奇特"で"非凡"なある意味"斬新"過ぎた、
窮極的な"武士"像が浮上する!
そして鎌倉幕府側では
人質にしたつもりの高氏の"正室であった登子"と、
息子の千寿王丸(義詮)が何故か"脱出成功"するのである。
日本史学の素人の私にとっては兄の守時は,
きっと妹と甥の脱出さえ見て見ぬふりをし,
さらにその脱出さえ"援護"したのでは?と思えてならない。
新田軍の堀口貞満と大島守之率いる数万は,
現在の"鎌倉街道"を伝って南下し,
私の生まれ故郷である現在の深沢地区=洲崎
"現在の神奈川県鎌倉市深沢地域周辺"まで迫った(洲崎合戦と呼ばれる)。
そして"守時"陣営と新田勢と相討ち,血みどろの衝突となった。
その数・・"守時"勢・・推定,僅か千数百人。鎌倉は既に戦力を失い敵勢に"包囲"されていた。
"新田"敵勢・・その数数万人・・であったと謂われている。
"太平記"では確かその数50万人とも60万とも記憶しているが,しかしそれは
明らかな誇張であろう。その10分の1のおそらく5万数千余人=”6万人規模の"軍"が
わずか千数百の武士を率いた"守時"陣営に襲いかかったとというのが史実ではなかろか・・。
北条高時"自害"(実質上の鎌倉幕府滅亡)の5月22日からわずか
正慶2年/元弘3年5月18日(1333年6月30日),
私が生まれ育ったこの地元,
深沢で赤橋(北条)守時は90余人の
武士たちとともに討死(切腹自刃)した。享年39歳。
一説には,
一昼夜に65回とも血みどろの合戦を交える激戦地となり、
赤橋守時は一歩たりとも退かずに戦ったと謂われている。
徳川に限らず,織田信長も,鎌倉幕府のその"名将"を深くリスペクトした。
"得宗家"が"専横(せんおう)=わがままで他者にたいする横暴な振舞いと態度"
を極める北条政権に絶望しながらも、
"武士"として最後まで意地とプライドを見せ討死した"赤橋守時"※。
その心情と、妹に対する無償の愛と"泣塔"の"お姿"は
何処か"いま"の私にとって激しく"密通"するのであった。
※5月18日、一門から裏切り者呼ばわりされるのを払拭するため新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊として出撃し、鎌倉中心部への交通の要衝・巨福呂坂に拠り新田勢の糸口貞満と激戦を繰り広げて一昼夜の間に65合も斬りあったとされるが、最期は衆寡敵せず洲崎(現在の神奈川県鎌倉市深沢地域周辺)で自刃した。一説に北条高時の思惑に配慮して退却せずに自刃したともいわれる。子の益時も父に殉じて自害した。享年39。
老朽化した市営住宅が立ち並んでいる。住んでいる方も少ない事が窺えた。
もう何十年と全く変わっていない。
※、日本の神奈川県鎌倉市寺分字上陣出424番(江戸時代においては相模国鎌倉郡寺分村陣出、幕藩体制下の相模国韮山代官所支配寺分村陣出)の、旧東日本旅客鉄道大船工場敷地脇に建つ、1基の宝篋印塔の通称である。泣塔の建つ一角の地名を「陣出(じんで)」といい、その名を冠して「陣出の泣塔」とも呼ばれる。
【WIKIより抜粋】
造立されてのちの塔の歴史についてもまた、ほとんど何も分かっていない。しかし、いつの頃からか、泣塔にまつわる不吉な言い伝えが流布されるようになった。泣塔が建つ土地を所有した者は貧乏になる、泣塔を目にした者は後日幽霊と出遭う、祟りを受ける、などといった類いのものであるが、これらの言い伝えは泣塔周辺を開発から取り残すほどの影響力を持っていた。
1943年(昭和18年)、周辺の土地が大日本帝国海軍に買い上げられ、横須賀海軍工廠深沢分工場が造営されることになったが、その際、泣塔周辺(陣出)も建設予定地に含まれており、泣塔は周りの丘ごと削平される予定であった。しかし、古くからの言い伝えを知る周辺住民はこれを思い留まるよう嘆願した。また、塔の撤去作業中にたびたび怪我人が出たことや、付近の工事現場で死者5名を数える事故が起きたこと、夜中に異様な音が聞こえるなど、凶事・変事が様々に起きたことから、ついには当局も泣塔の破却を断念し、この一角(陣出)だけは手を着けることなく建設予定地の脇にて旧態地形のまま保存され、周辺住民によって供養され続けることとなった。翻れば、周辺にあった他の古戦場由来地はほとんどがこの時期に削平されてしまって現存しない。
第二次世界大戦後、横須賀海軍工廠深沢分工場の敷地は、1949年(昭和24年)6月1日に発足した日本国有鉄道(国鉄)に払い下げられ、車両整備工場として再整備されたが、この際も泣塔については保存の方針が引き継がれ、毎年の創立記念日には供養が行われた。また、1966年(昭和41年)12月1日には、時の工場長の発案で、泣塔の周辺に杉の苗400本が植えられた。
↓"偶然"と"偶然"がたび重なりあうことによる圧倒的な"必然"・・
これが21世紀の現在の鎌倉時代最後の"須崎の合戦"の場所とされる
YouTube上でも唯一のリアル映像の私の"渾身"の力作動画となります。
今にして思えば私にとっても"不謹慎"ともいえるこの"一帯"の自動車での走行シーンになりますが、
ほんとうに"奇跡"的なことがたび重なりました。この"須崎"一帯は私にとって本当に驚くような体験が多いです。
その奇跡のひとつには"須崎の戦い"の時期におそらく"鎌倉武将達"も"新田軍"も絶対に見ていたであろう、
"近似"していると直感し捉えることのできた21世紀の5月の沈みゆく落陽="夕映え”です。須崎の合戦の時期は丁度同じ時期※です。※厳密に述べればユリウス暦では1333年の6月中旬から30日。
その"黄昏と落陽と夕映え"を見事に捉えることが出来、そして頬を打つ風の凄み・・・私は、目の前の光景よりも"吹く風"のいつもとは普通でない"音"に圧倒されたのです。
その"風の声"に車を運転しながら総毛立ちました!
(風の音は動画で"残して"いますので是非体感して頂けると幸いです)
そして私が選んだ"音楽"は一切ずれることがなく、まるですべてが予定されていたかのように苦労もなく、ほぼ
完全に完璧に"同期"したのです!(実際録画している時は"EXILE"のバラードが車内で流れていましたが、編集にあたり、車内で流れていた音楽を限界まで削除しました)2020年11月現在、記事投稿するにあたり、
あらためて本動画↓を見ました。このすべての要因を満たすためには、多くのカット割りや動画の再録音などが必要であった筈です。楽曲のサックスの震える"声"と"歌"はこの時の須崎の条件をすべて満たしており、暗喩ともいえる深いLyrics(歌詞)、そしてこの撮影されていた間に感じた、私の強い思い・・総てにおいてこの"リンク力"は自力の能力とは到底思えず、越えています。未だに信じられません。(2020年現在立入禁止区域箇所)
私にとってこの動画はきわめて重要です。
この日、撮影した映像はわずか2テイク。本編と、最後のシーンのみです。
私の生まれ故郷である場所、そして幼少の頃この広大な一帯の隅々まで熟知していた少年であった頃の私の、700年も昔の須崎の"武将達"にたいしての私の深い"リスペクト"を感じて頂けたら光栄です。
音楽も夕映えもすべては完璧にシンクロされ、"粛粛"とこの動画は無理なく編集されました。
お時間ある方は是非観て頂けると幸いです↓
※【追記事例】
今回の"泣き塔"の訪問では写真撮影のほかに
"動画の撮影"も行ったというのは冒頭で述べた通りです。
Nikon COOLPIX B500もSONY HDR-MV1もメーカーも違い,
内部に挿入していたMicroSDカードは使い回しなどせず、別々のモノ=個体です。
しかしながら,保存されていたデータは僅かな画像を残しただけで,
撮影した動画の全てが黒く塗り潰されたように"真黒"になり、
本来リアルタイムに録音される筈の"音声"さえ全く存在していませんでした。
さらに恐ろしいことは、
私の"撮影した時間"だけがきちんと克明に正確に"保存されていた"のです。
初歩的なミスで"レンズカバーをしたままの状態"で撮影することなどは決してありませんでした。
ならば"音声"だけは克明に録画されている筈です。前述したように
この様な"異常な現象"はおそらく確率的にも理論的にも可能性は極めて低く、私を激しく"混乱"させました。
デジタル機器の不具合が2台同時に起こり得る可能性を考えてみたものの、答えを見出すことは困難でした。
SDカードのなんらかの不具合を疑ったものの"静止画像データ"=写真が"わずか"ながら"遺って"いたからです。
"その事実"は理論的ではありませんでした。まず現代のメモリの構造はハードディスクの様なストレージと同位であるのか?という根本的な"課題"も考えました。可能性として動画データのみに?不具合が生じる可能性、即ち""if""=もし、があったと仮定しても、その"if"とは"録画動画データ"のみを選択し、仮にその箇所だけにErrorが生じるという可能性は・・統計と確率的には(そんな検証をメモリー製造メーカーがしているとは到底思えない)数千万、もしくは数億分の1の確率で生じるのか?・・その意味のないまるでない"無残な可能性"を考えただけで
私は・・ほんとうに・・心の奥から"恐怖"を覚えたのです。
データの中身を見て恐怖を覚えた"真夜中"も、
本記事を書いている最中も"混乱"し、
私は記事を投稿し終えた"後日"まで"思い起こすこと"ができませんでしたが
過去には実際、そのような"不可解な現象が起きたこと"をはっきり思い出しています。
この記事は"泣き塔"の記事ですが、あえてその過去の経験談の話をさせてください。
あの夜は、私がまだ10代の高校生の頃でした。
同じ高校の仲間達が私の部屋に来ていていました。
単車ばかり集まって"二人乗り"をしてきた奴もいたと思いますが、
おそらく7.8人は私の部屋に男ばかり集まっていたと記憶しています。
もう"時効"かと思いますが私の部屋はいつものように仲間共の"煙草が目に沁みる程"でした。
あの夜は・・夏・・にはなっていなかったと思います。
どんな"どうせくだらない話"をしていたか忘れましたが、
"バカ騒ぎしていた"最中も当時の私はいつも"音楽"を割と大き目の音量でずっと流していました。
中学生時代と違いバイトに明け暮れた生活もしていたので、
当時の一般の高校生にしては、それなりの良いオーディオ機器を所有していました。
"CDプレーヤー"も既に所有していましたが、あの夜は"アナログ・カセット・テープ"を再生し、
音楽を掛けながらいつものように仲間たちと"くだらない談話"をしていた筈です。
しかしふと誰かが先日亡くなった同じ学校の女生徒の話に触れました。
仮に名字から"O"さんとさせて頂きますが、今回の記事を書く、という経験を通じて、
私は彼女の名字も面影もくっきりと、はっきりと思い出しています。
美人で可愛くて、性格も明るくて素敵な女性でした。
同校ではプラトニックな男性ファンも大勢いました。
いま、"泣き塔"に絡んだ"課題"=不可解な現象は
結局"O"さんのことを思い出すきっかけ、となっています。
私と"彼女"とは中学が同じで同じクラスメイトだったこともあったので、そうとう親しい間柄でした。
すごくかわいい女性でしたが"彼女"としてつきあうこともなく、つまり"出来ず"もっと"深くなれず"、
私は生前、あくまで親しい"友人"としてのおつきあいをさせていただきました。
しかし高校時代も廊下ですれ違うだけで
"アイコンタクト"でなんとなく互いに意思疎通=挨拶出来るほどの"異性"の友人でした。
ある日の早朝の午前5時台、
自走するバイクで事故に遭い、還らぬひととなってしまいました。
その夜、"彼女の話"で暫くの間・・"もちきりに"になりました。
なんでまた、あんな早朝に亡くなってしまったんだろう・・という話にもなりました。そんな"朝帰り"するよう子には見えなかったよな?・・とか。いやいや、年上の彼氏が他校でいたんだとか?
・・彼氏は大学生だったんじゃないか?・・とか・・
・・俺は隠れファンなんだ!そんな女性(ひと)じゃ絶対ないとか・・"彼女"の話題がしばらく続いていました。
しかしいずれも、皆"口は悪くて"も亡き彼女のことを凄く慕っていたし、
こんなのも"供養"なのかも?って10代ながらその場の自分は感じていました。
私は当時も中学時代も
"その夜"も、"O"さんのことを何故か?仲間の男連中にあまり話せなかった。
そんな話で盛り上がって?・・夜もかなり更けてきた時刻でした。
仲間のひとりの顔が急にひどく青ざめたのです。見れば半分口を開けたまま、酷く動揺していた。
よくよく周囲を見るとほぼ同時に?私の部屋にいた仲間達全員がどこか彼と似たような表情が伺い知れた。
妙な緊張感で"私の部屋"に"ある動揺"がある種・・"伝搬"しているような様子だった。
"物思い"に耽っているような奴もいた。
その部屋の状態は私も、すぐに気がついたのです。
あれだけ騒いでいた”奴ら"が
誰ひとりとして声を出しておらず、全員が"無言になっていた。
さらに仲間達の何人かは、
どうも私の背後に"目が離せないで"いるようだった。
・・私は・・"そういうこと"・・に昔から"鈍感"だったようです。
けれどさすがに自分の背後を振り返り、
見てみれば、なんの変哲もない、見飽きた
ただ私が所有するオーディオ機器が積まれた、
割と大きなガラス・ケースしか自分には"見え"なかった。
・・?!。
・・その瞬間、
・・その場の仲間たちの中では"最後"になって
・・そんな鈍磨な私も、気がついた。
・・背中から頭まで静かに強い
・・寒気が這い上がっていった。
据え置き式の"カセット・デッキ"は・・
テープは再生され巻かれ
ずっと"静かに"進みながら、
"再生"されているはずだというのに
この部屋の・・
"音楽"は"既に"全く"かき"-"消されて"いたのです!
その瞬間に自分が1番"恐怖"に駆られたかもしれない。
"一切"の音楽が消え、テープの"ヒス・ノイズ"すらスピーカーから全く発生していなかった!
(あの頃の私は既にノイズリダクションを否定していた。onで録音しても再生はいつもoffにし、テープ自体の発するヒス・ノイズよりも音楽そのものの音質を大事にしていた。本来スピーカーから発するヒスノイズは常にあった)
それは・・ある瞬間から、突然"生じていた筈です。
その空間に居た仲間たちに比べて、鈍感な私は最後まで"それ"に気がつかずにいた。
・・恐ろしかったのは
・・再生レベルメーター(インジケーター)はずっと
ゼロのまま何も表示しておらず、カセットデッキ内のカセットテープだけが静かに
テープを巻き取り、再生し続けていたこと。
私は高校時代になって中学時代に比べて、仲間内でも相当"メカ"に詳しかった。
当時私が所有していたその夜再生していたカセット・デッキはこれ↓です。
AIWA社製 AD-FF70。画像はWEB上から引用した。
2020年11月現在、書斎のファイルの束を"捜索"したら、なんと!
このデッキの説明書(マニュアル)が発見されました。
当時、再生していたデッキは間違いなく"これ"です↓
私はそのとき、機種の内部のカセットの動作を睨みつけ・・"凝視"した。デッキは
整然と粛々に"作業"をこなしながらテープを巻き取り、いつものように"再生"操作が
進行していた。なのに・・音が"無音"だった。
部屋で流れていた"音"は"完全に消滅"していた。
・・一瞬のうちに・・デッキ内部のヘッドが※"帯磁"したのだろうか!!?
高校生ながらも、それはあり得ないと咄嗟に思った。
※注)2020年現在の私にとっても"あの夜"の音の"無音"化現象はアナログ・テープの一般的に生じる"帯磁"に依るものが原因ではないと理論的にはほぼ断出来る。そもそもテープの磁性体に記憶されたものがヘッドの帯磁で一時的にせよ、再生音が完全に消滅するという事実は存在し得ない。音がこもる、音が小さくなる、音質が下がる・・程度である。また帯磁という問題は"消磁"という作業によってアナログテープの再生装置は復旧できる。
また当時も現代も民生オーディオ機のライン経路は有線の接続においては短絡的である(つまり業務用音楽制作現場とは異なる)。当時の私は山水のプリメインアンプ↓をメインとしていた。
アナログレコードプレーヤーやFMチューナー、カセットデッキ等を繋いでいた。
アンプにてスピーカーで再生できるデバイスを選択する。この夜での異常な現象の可能性は、アンプ内部での"トラブル"は低いと考えられる。おおむね民生機種も業務用も古今問わず、音が出なくなる、という症状においてはなんらかのノイズ音が生じるケースが大半である。仮にアンプ部での接触不良であれば、トラブルが生じる前に高い割合でガリノイズ等の音が生じる、もしくは"コンデンサー"等が破損すればそれなりの音がまずスピーカーから生じ、以後全く、音は出力されなくなるだろう。そもそも私もほかの多くの仲間が"目撃"した様子は、音が消えた際、カセットデッキの液晶レベルメーターが再生音を全く表示していなかったこと、従ってテープの磁性体に刻まれた再生データがヘッド部位に"なんらかしら"の強い"電気的"な作用が生じたことで、一時的ではあれ
"飽和状態"に陥り、読み取り不能になったのでは・・というのが現在の私の推論である。
その沈黙と寡黙と静寂は・・10秒だったか、20秒だったか、
もっと永かったのか・・思い出すことできません。
ただ、気になるのはどんな音楽ソースを再生していたか・・?
実は、それが依然と全く思い出せないので、ある。
・・重い空気の中で悲鳴の様に仲間の誰かが叫んだ。
"四十九日もたってないんだから・・もう止めようぜこんな話!!"・・その言葉はリアルに思い出す。
その声で皆が少し我に返って
・・それを聞いた私も、カセットレコーダーのストップボタンを押し、一旦再生を停止させ、
イジェクトボタンを押し、カセットを抜き出してカセットテープ"そのもの"を"凝視"した。
稀にアナログは内部構造の走行経路である"キャプスタン"部や"ピンチローラー"部で不具合が生じ、
テープ自体が歪み、再生に支障をきたすことがあった。
しかし"その時のあの頃の私"にとっても、
その取り出した"カセットテープ"は至って正常に見えた。
再びその"機械"=カセットデッキに挿入し、
蓋を閉め、しばらくのあいだ音が消失して
"無音"であった筈の箇所と思える"箇所以上"に"巻き戻し"ボタンを押し"巻き戻して"から
テープを一旦停止し、再生ボタンを押した。
しかし、なぜか今度はデッキがおかしくなったのか?
なかなか"再生されない。
機械そのものが・・ぶっ壊れたか?!!
苛って停止ボタンを押し、
再生ボタンを押すことを何度か繰り返したら、急に
テープが動きだし、部屋に突然、大きな"音"が出た。
"こういうことって・・・あるんだよな・・・・。"
仲間の一人が"煙"を吐いてそう呟いたことを鮮明に思い出している。
いま想起すれば・・あれは・・一体なんだったんだろうと考えれば
後半において"なかなか再生が出来なかったこと"自体は私の操作ミスと想定できなくはない。
しかし、カセットデッキ内のアナログテープ表面の"磁性体"がなぜ突然、
しかも何十秒もの間も"沈黙"し続けたのか?
あれから30年以上も経過しているというのに、明確な理論では説明不能なのである。
それとも、あの異様な現象は誰かの何かの発言かその場の雰囲気に依って、
所謂一種の"群衆の心理"の"共有化"のようなものが生じたことによる
・・ただ"集団催眠"のような状態に陥った"のであろうか?
つまりひとつの"集団パニック"である。
つまり"音は出ていた"が音が消え・・"出てはいない"・・という"集団暗示"である。
それが無意識に暗黙のうちに共有化され、皆が同様の"音が消える"という"知覚"を伴った。
おそらくそれが1番妥当な"結論"だ。
しかしあえて・・・そうした"集団心理"も一度完全否し論理="理論"で説明せよとなると・・
現在の私がどう推察しても、これは音響技術的にみれば
どうしてもどこかで必ず"限界"が生じてきてしまうのであった。
【編集後記】
今回の陣出の"泣塔"の再訪問でも、これだけの不可思議な事実が生じたことによって、たくさん
"考えさせ"られた。"泣き塔"の古くからの言い伝えは圧倒的であるし、私の子供の頃怖がっていたことも踏襲して改めて考えると、また違った意味合いが生じてくる。
それは論理とは違い、考えることよりも"感じる"ことだった。
今回はデジタル録音した動画データのすべてが"真黒"になり、記録時間だけが残されていた。同じ状況になれば、私のような"祟り"を知っている地元の人間でなくても、
まずはその現象を目の当たりにしたら"怖い"と感じる方も少なくないだろう。
私は何度も泣き塔の動画撮影に成功してきた。記事もそれなりに書いてきた。だが、いまに及んでふと感じたのは、"これ以上は、陣出に触れるなよ・・"という"警告"・・なのかなと、ふと感じたりもした。心から"宝篋印塔"の"泣き塔"と呼称されている遺跡と"あの森"と"須崎"=現在の深沢を愛し、守時陣営だけでなく、新田勢を含めれば、数多く(数万)の武士達が命を削った"一帯"に深い憧憬と畏怖心がある者だからこそ、あまりいい加減な気持ちで、記事=吹聴してはならぬ!という私への軽い"戒め"なのかなとも感じたりする
"自分"がいるのもまた正直なところである。
私も歳を取り、そうした不可思議な理解を超えた現象や事柄を頭から否定することができなくなってきた。
"何か"あるのは確か、であろう。私たち生きる人間ではとうてい及びもつかない、つまり"圧倒的"な存在である。
その"存在"とは私たちが普段考えている"時間"すらあまり意味をなさない。
それを"神"と呼ぶ者もいれば、先祖と呼ぶ者もいよう。英霊と呼ぶ者や、
霊魂と呼んでも私にとっては"同言"である。今回の"訪問"と"データ障害"は、
亡き"O"さんのことまでを思い出した。供養とは何も形式ばって墓参りするだけのことでは決してないだろう。
私は"泣き塔"に"祟られて"はいない。幽霊は見ていない。身内に不幸もなかった。"あの森"は突然凄みを感じたりすることが屡々だが、どこか凄く"暖かい"。やはり私にとって"霊処浄域"であることに間違いない。
"存在"とは、ただそれを呆然と見ているだけでは至って理解できないということにも改めて気づかせてくれた。つまり今回では"漆黒の真っ黒な時間だけが記録された動画データ"である。泣き塔のお姿を捉えようとしてズームしたりして撮ったデータが不可解で理解不能な状態となった。そこには何か"深い"意味を感じてしまう。全世界の"難書"と称される、ドイツ哲学者マルティン・ハイデッガーの主著である"存在と時間"(そんざいとじかん、"Sein und Zeit"、1927年)をいまふと彷彿している。"存在と時間"という人類にとってきわめて難問とされる書の理解に"再び私が挑む時期"がそろそろきているのかもしれない。哲学書は意味のないひとにはまるで意味がない。しかし自分と同じ問題意識が示されていることが見い出されたならば、書を通じ自身の問題をよりさらに鋭く明白にはっきりと認識でき恐ろしいほどまでにその人間は成長するようにもなれるtips="指南"という面がある。"存在と時間"を際立てて難解にする"本来性"とは"負い目"を直視すること、他者なるものの=つまり"存在"に対してしかるべきアプローチ=仕方でどう応答するか・・そのに人間の"覚悟"を意味していたように記憶している。深淵ではキリスト教が根底に流れていると感じられる書であるものの、キリスト教の教えの"神"そして"来世"といった超越的な要素を徹底してそぎ落とした結果、"超越論的存在"を認めない仏教に、構造的には近いと記憶している。しかし書で謂う"本来性"とは神に従った敬虔なあり方であり"非本来性"とは神に背いて"原罪"に囚われている"生"である。
自分という存在が"重い"・・・21世紀現代。
つい相手や他者や組織に、また蔓延した"情報"に闇雲にしがみついてしまう。
そして何か都合の悪いことがあるとすぐ相手のせいにしてしまう。
これが"非本来性"といわずとして何といおう。生きるということは、さまざまな他なるものの"存在"に対してより応答していること、つまりその"終わりなきおこない"と"努力"なのだという・・よき日本人にとっての"道"の考え方にも通じるところがある。それはまさにZENN (禅)の世界でもある。
"武士"として最後まで意地とプライドを見せ討死した鎌倉幕府最後の16代執権"赤橋守時"の生き様は
"泣き塔"と呼ばれる"宝篋印塔"・・即ち墓塔・供養塔の放つ"オーラ"を通じ"クロス"し、私にいつも何か大事なことを"お伝えしてくれている"ように感じられる。
お目にかかって怖いと感じたことはあったが、後日"拝観"してやっぱりよかったという強い余韻=印象を抱く。
相手を責めずに、組織や国や社会のせいにしないで、自分自身にたち向き合うこと・・・・"赤橋守時"や鎌倉の武士たち、敵でありながらも須崎の地で息絶えた新田軍の大勢の武士・・。彼らの魂が刻印された"宝篋印塔"である
"泣き塔"に接すれば、あの人類にとって最大の"難しい書"といわれる"存在と時間"さえ再び脳裏に去来するのであった・・・