“お元気ですか!?”-オフコース-“心はなれて”!!-限りない喪失からの再生!!-“Off Course”という名の記号!!-“1981-1982年”の完全に蘇った追憶!!

【P.S.2】追伸2

"K"とは"OVER"の色あせたジャケット話のあと
これだけは幾ら自分が"記憶喪失"だったといえずっとさすがに覚えてきた事がある。

"K"が加入していたバンドは先輩達ばかりだから,
当然だが卒業してしまった。

彼は同年代のバンドを構築し始めていた。学校からの下り坂だったか・・
歩きながらだったかその時のシュチュエーションまでは思い出せていない。

けれども・・もう今は
こんなやりとりがあったことをつい昨日の出来事の様に鮮明に思い出せる。

"またバンド組むんだろ?"

私が"K"に質問すると,

"殆どメンバーは決まったよ。
あとは・・”

"またオフコースやんのか?”

私が笑いながら言うと,

"楽曲までは決めていない。
俺はギタ-に専念したいんだ”

"歌やめんのか?"

私は"詰問"した。

確かに彼は変声期を迎えていた。
変声期は私の方が早かった。
話す声が低くなった。私も,彼もまたおそらく
高いトーンの歌が歌えなくなっていたのだろう。

"自分の歌に限界を感じているよ。
元々声がいい訳じゃない。だから・・”

いつになく彼らしくなかった。
結論が後回しになっているからだ。

"だから,なんだよ。高いのが駄目なら
低い歌やればいいじゃないか!”

"この前のおまえの"声"だよ。声量と声質だ。
本当に驚いたし感動した”

私は彼が真面目に話しているのに
失礼だなと思ったがつい失笑してしまった。

冬場にあれは修学旅行ではなかったが,そう
真冬だった。学年(500人弱)で地方で
合宿(思い出せないが,スキーだったか)
があった。夜にメシを喰ったあと生徒が全員集められて,
時間があまりその旅館かホテルだか定かでは
ないが,催しだか教師の話みたいなのがあった。

予定より時間が余っていてその場には500人も生徒がいるから
教師側もなにか"やって"時間を潰す必要があったのだろう。

いきなり中学1年の時の担任(生活指導顧問)の男
教師に呼び出された。私に対するデマンド=要求は
"なんでもいいから何かやれ!"だった。

500人全員の前で急にひとりで一体何をやれというのだ?

強面されている教師だったし個人的に大好きなひとだったが,
急にそんなふうに言われても無茶だった。最初断ったが,いいからマイクが
あるから何でもいいからヤレ!である。

腹を括った。歩きながらどうしようか悩んだが,歌でも歌うか。

それも伴奏もなくたったひとりで。
さすがに少々頭にきていたから,ホテルの従業員からマイクを
渡された時も壇上にあがってもだれにも頭も下げなかった。

500人の生徒達が全員私を注視した。
不良達もヤジを入れなかった。
私も彼らをみた。
千人の眼を感じた時,
そうだ"荒城の月"でも空(空気)に向かって唄おうと思った。

今では分かるが土井晩翠の作詞、原曲は瀧廉太郎の作曲、編曲は山田耕筰。

既に著作権消滅した不屈の日本歌曲であり,
私は当時歌の練習でいつもこの歌を歌い,
完全に完璧に暗唱していた。
当時の少年の私は知るよしもなく学ぶ機会もなかったが,奇しくも
瀧廉太郎もまた24歳になる前に23年の人生に幕を閉じている。

"春高楼(こうろう)の花の宴(えん)
巡(めぐ)る盃(さかずき)かげさして
千代(ちよ)の松が枝(え)わけ出(い)でし
昔の光いまいずこ

秋陣営(じんえい)の霜の色
鳴きゆく雁(かり)の数見せて
植うる剣(つるぎ)に照りそいし
昔の光いまいずこ

いま荒城の夜半(よわ)の月
替(かわ)らぬ光たがためぞ
垣に残るはただ葛(かずら)
松に歌うはただ嵐(あらし)

天上影は替らねど
栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなお
嗚呼(ああ)荒城の夜半の月"

音を増幅する安物のマイクなんてその頃の私には一切必要なかった。
小学生時代に3回喉を完全に潰していた。
中学に入っても2度潰して"咽頭科"に通った。
まるで雑草みたいに幼少を生きた。

あの頃は歌い方がまるでなっていなかったが,中学生になっても
殆どマイクを使う機会もなくそもそも必要もなかった。当時の少年にとって"カラオケボックス"など
皆無の時代であった。

私はマイクを平行に保ち
両手で強く握りしめ,全力で"荒城の月"を歌い上げた。

前の方の女子達が,
今にも泣きそうな顔になっていった。

構うもんか!・・この部屋を"割って"やる!全力で歌い上げた。

左側の壁の天井付近の縦長の閉ざされたガラス窓全てが
出力した音声に共鳴し,がたがたと枠が外れるように
音を立てて共振した。そこまで酷くはなかったが,あの頃はいつもの事だった。

別のバンドでスタジオ入りすると備え付けのドラムのスネアや
シンバルが声に共鳴し妙なさざ波の様な音を立てた。

閉めきった自宅で大声で練習していると
コーヒーカップとソーサーがかたかたと共振し,
テーブルのカレンダーが倒れたり小物がずれて床に落ちたりした。
それは超常現象でもなんでもなかった。私は
存在する"物体"とはそれぞれ特定の周波数にとても敏感である事を悟っていた。
では,人間にたいしては,どうか・・。
それは今でも分からないでいる。

歌い終わり,
最後に最後まで聞いてくれていた
みんなに頭を下げて壇上を降りた。

おそらく彼はその時の事を言っていた。

"これから俺はリード(ギター)を取るが,サイド(ギター)も
ベースもドラムスもキーボードもメンバーは全員決まっている。
実はまだひとつだけ足りないのがある”

私は何も答えず
彼と目が合った。

"フロントマンを探している。
リードボーカルを探している。
・・歌ってみないか?”

私は答えず
苦笑しながら笑顔で返した。
あれは学校帰りの下り坂だったのか?
"K"の背後に褪せた夕陽が"心象風景"みたいに残像として残されている。

"週末ひさしぶりにうちに遊びにこないか?
大人数になるからリビングを借りたいって父にも言っておいた。
メンバーを全員紹介するよ”

"わかった"

私は初めて笑顔でそう答えた。

あれからもう40年が経つ。
29年前,突然"K"はこの世を去った。

私は大事な多くの事柄を無意識に抑圧し,そして
鍵を掛け,封印してしまっていた。

生きてゆくために事実とは違う
記憶で塗り替えて生きてきた。

"K"・・
そんな生き方しか出来なかった
俺の事をどうか赦して欲しい。

私はもうにどと
決して忘れない。

あなたの事を・・
オフコースのことも。
あの秋の事を・・
あの冬の出来事も。

【編集後記】
"K"と1981年の末に
"色褪せた""over"のジャケット話のいきさつがあった後日談も
"忘れ去られて"いた記憶が蘇ったので記しておきたい。

1982年の1月の真冬から
これはスピンオフ=余談(まさに"The long and winding road")
になってしまうかもしれないが,
私も"K"も他の様々なジャンルの音楽を聴く中で,
"オフコース"の"over"から発するメッセージはずっと気にかけていた。

私はあれからた度々,
"over"を自宅で聴いていた。

その聴き方は少し変で,A面の
1."心 はなれて"(Instrumental)2'06"と
2."愛の中へ"
を聴終えた後に
B面ラストの
"心 はなれて"で締めた。
まるでハードロックを聞くみたいに
"爆音で聴き入る"という流れだった。

"心 はなれて"を聞いて"感じる"と
私の心境(心象)で奇妙な事が起きた。

"心 はなれて"を
聞き終えると必ずといってよい程,
ある曲が"連想"されるようになった。
別記事に続く・・

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