“お元気ですか!?”-オフコース-“心はなれて”!!-限りない喪失からの再生!!-“Off Course”という名の記号!!-“1981-1982年”の完全に蘇った追憶!!

そして,
2020年9月。

↑有志の方による引用画像。現在の神奈川県藤沢駅南口。あの日"3人でラーメンをすすったビル"は"ダイヤモンド"と"表札"のあるビル。

私は当時の"K"との記憶を
ラーメン屋のときの光景のようにほぼ完全に呼び醒まし
"覚醒"し始めている。それはあの頃の
色あせた秋の光景と冬の冷たさを共に感じながら・・

話は1981年の
12月の冬に遡る。

私は12月1日に発売されたオフコース通算9作目のオリジナルアルバム
である"over"のアルバムジャケットに関して
発売直後に"K"にある苦言を述べた。

"K"はあの日(試験時間を間違えた事件)で,
"そろばん"(珠算塾)を止める決心をしてしまった。

私は自分より何もかも遙かにずば抜けた能力のある"K"にたいして
"もったいないから,次の試験までがんばってみろよ!"と助言していたが,
結局譲らなかった。

"本格的にギターを演りたいんだ”

そう言われて当初は彼の言ってる意味がまるでよく分からなかったが,
"秋の気配”や"ワインの匂い"など持ち前の能力の高さで
小学生時代はフォークギター(アコギ)の演奏であったがみるみるうちに
上手になり,彼が"弾き語り"をしてくれると,それこそ
歌もギターも"呆れる程"に上手かった。

そろばんの"事件"だけでなくて"K"はいつもそうだった。

何をやっても上達も速くてレベルが高かったがあまり物事に執着心がなかった。
ひとからみれば,かなり十分なレベルでもっと頑張ったらもっともっと凄くなりそうなのに,
本人にとって無理だと悟れば,きっぱり止めてしまう。
そんな"決断力"の凄いところの"K"も私は好きだったが
自分と真逆で正反対な感覚が理解出来ない事が屡々あった。
私=自分自身は表面上彼より粗野で野蛮な少年だと自覚していたが,
"K"はもっと自分なんかより遙かに"怖い存在"なのでは?!と思うふしもあった。

私はかなりの忍耐と努力を"駆使して"ようやく
"K"の6.7割のレベルになれたら,いつも満足していた。

そんな私は出会った時から"K"を尊敬していた。
嫉妬心もライバル心のかけらも"K"には抱くことはなかった。
本当にいまでも不思議なのは,彼が何故私を大事な友人のひとりとして
選んでくれた,かである。
それは記憶が覚醒した今でもほんとうのことは分からない。

"K"はいつも私より,一歩も二歩も先を進んでいた。
実際に歩くときは同じ速度でも,
考えや生き方や決断力は他の誰よりも優れていた。
"K"の"つぶやき"=予言はよく的中し周囲を驚かせた。"K"は既に"老成"していて
薄気味が悪いと思うくらいに将来を的確に見据えていた。

"オフコースの新譜だけどあのジャケ(ット)見たよ。
なんだよあれ?シケてるよな?写真の色が薄くて褪せてる。
あんなのじゃ売れるもんも売れねぇだろ!
何考えてんだろ?おまえはどう思ってんだ!?"

あの頃の私は自分でも嫌になるくらい言葉も粗野で乱暴でいつも
行き当たりばったりで"K"にそんな風に質問した。
13歳の12月の冬の出来事である。

私はこのアルバムを予約していなかったし,
そもそも"オフコース"のシングルもアルバムも※一枚も
所有しておらず,買った事もなかった。

※ここに記憶の障害が29年間生じていた箇所である。
そもそも当時(一枚もアルバムを買ったこともない)
ファンでない私が何故オフコースの曲や"彼ら"の多くの事を
知っているのか,歳を経てゆく私にとって不可解な
謎としてずっと"しこり"となっていた箇所であった。

あの頃の私は激しい音楽に傾倒していた。8ビートよりは
16ビートや32ビート,低速よりは高速,重低音なサウンドを
音楽に求めた。それは"K"も同じ側面はあった。
ガット(クラッシック)ギターよりはアコギ(フォークギター),
アコギよりはエレキギター,
エレキでもパッシブよりアクティブで
強烈なパワーのある音=サウンドばかりを重視していた。

一発でリスナーの魂を揺さぶる"チョーキング"より
手数の多いピッキングやライトハンド奏法を好んだ。

自然な音よりあきらかに"歪み"を求めていた。
それは当時の周囲の知り合いの不良達と全く同じ"感覚"だった。

けれどもずっと忘れてはいない大事な記憶であったあの頃の私は,好きな女の子がいた。
ずっと"片思い"だった。きちんと"告白"出来ずにいた。
そんな自分が歯がゆかった。

透き通るように肌が骨のように白く目鼻立ちの綺麗なやせた,
ストレートの髪型が凄く似合う子だった。

彼女は"オフコース"の熱狂的なファンだった。

私は今日(こんにち)までそんな
"あの頃好きだった女の子の記憶"をとても大事にして生きてきた。

だからあの頃の私は"こそこそ"と陰で"オフコース"をたくさん聞いていたのだと
つまり"勉強"していたんだとずっとそう解釈してきた。だから詳しかったのだ,と。

そして"オフコース"のことを俺は大好きなんだ!とは大声で当時の男仲間達には言い難かった。

地味で,ライブ映えもしないバンド。
決してルックスが良いバンドには思えなかった。
少年であった自分にとって,どちらかと言うと格好悪かった。
"おやじ"くさかった。そもそもファンの女の子達は"オフコース"のメンバーの
実年齢とかけ離れていた。ファンとアーティストは
親子程の年齢差である。
そんな"不満"を抱えていた私だったが,
"オフコース"のファンは,私の大好きだった彼女だけではなかった。
圧倒的にもの凄い人数の女の子達が,オフコースの熱狂的なファンだった。
彼女達が,親子も離れた小田和正や鈴木康博を"さん"付けして話すのを
耳すれば,男子達は,小田,鈴木と"わざと"偉そうに呼び捨てした"時代である。
きっとそんな男子達も相当な人数でご多分に漏れず"好きな子の胸の内"が知りたくて?
私の様に陰で"オフコースの勉強"をしていたのではないだろうか。
自宅に帰り,今一度音源をヘッドホンで聴くと
音数も少ない。表面的な激しさがなく,物足りない。
しかし,そういう解釈が完全に実は間違っているという事を
当時の少年だった私でさえ痛い程に感じていた。
音楽はそんな"ものさし"で計れる筈がなかった。
"片思いの腹いせ"に,彼女の大好きな"オフコース"にただ逆恨みというか,
八つ当たりをしていたにすぎなかった。"オフコース"にとってははなはだ迷惑な話である。
少年だった私でさえ自分のほんとうの心の本心には実は正直に気がついていたのである。

そんな思い出はしっかりと私の記憶にあって,
好きだった片思いの彼女の影響で自分は"オフコース"が好きなんだと解釈して生きてきた。
おそらく"K"を失った29年前から・・

"K"と共に通った地元の公立中学校はまるであたかも
音楽の専門学校みたいだった。男女含めて
1500人は在籍している生徒にはいろいろな奴がいたが,
皆共通していたのは,音楽そのものが好きだったって事だった。
"演奏会"となればエレキギターが数十本はすぐに体育館の壁に
立てかけられた。あの光景は当時少年の私にとっても"壮観"だった。

その中でも"K"は中学1年生くらいの頃から先輩達とバンドを組んでいた。
メンバーの中で下級生は唯一彼ひとりだった。リードボーカルでサイドギター
的なポジションであったがもうその頃はアコギだけでなくエレキギター
も相当な演奏力=腕前になっていた。そのメンバーの中には1500人は在籍している
全生徒の中で私が最も音楽的に尊敬しているギターリストの先輩がいた。

そのコピーバンドの演奏レベルは相当なものだった。基本はフォーク系や
オフコースのカバーであったが,そのインパクトを高めるためにベースも
ドラムスも勿論キーボード奏者もいて,全てにおいて間違いなく校内No.1だった。

文化祭の時,私は彼らの演奏を客として見ていた。一番前の方に座っていた
ように記憶が蘇る。そのときの私が感じた衝撃=インパクトは相当なものだった。

声援も拍手も出来なかった自分。周りの"K"のファンの女性客の奇声も聞こえなかった。
おそらく自分は口を開けたままずっと見ていたのではないか。

アリスの"チャンピオン"なども凄かったが,

記憶にあるのはオフコースの
"愛を止めないで"の演奏だった。

↑現在では数多くの著名アーティストにカバーされている。しかし私にとってオリジナル曲は唯一無二。
"オフコースという集合体"が結実したサウンドは今の私にとって絶対的である。完全オリジナルバージョンを引用出来ず残念である。

"K"がリードボーカルを取っていたが,
尊敬する先輩のギターの演奏はオフコースの"鈴木"や"松尾"というよりも,
"TOTO"のスティーヴ・ルカサー(Steve Lukather)が目の前で演奏していると錯覚
する程のショックを受けた。

元々,1979年1月20日に発売された"愛を止めないで"は
私にとってはロック・テイスト溢れるバラードでお気に入りだった。
初めてこの曲↑を聴いたのは小学生の時であったが,咄嗟に
いずれこのバンド(オフコース)は"モンスター"バントになると少年なりに確信したものだった。
レコーディング=Rec(録音)手法はキャビネット(ギターアンプ)の音をしっかり拾っていた。
明らかにオフコースは変容=変革していた!
この曲がオリジナルのキー(調)を保ったまま,レコーディングされたオリジナルの
曲と同様に激しいギターのフィードバック音と共に"K"がリードボーカルを取り,
ほぼ完璧な状態で目の前の先輩(少年達)が見事に演奏=再生している。
とくにこの曲は歌い出しが難しい筈だった!紅一点だったピアノを弾く先輩は女性だったが,"K"と目配せした途端,"K"がマイクに向かいあったや否や譜面も見ず彼を見据えたままイントロのピアノの出だしを演奏した!
この曲はカバーする上でピアノ奏者とボーカルが別だと難曲といえた。
まさに阿吽の呼吸,だった!私は開いた口が塞がらなくなってしまった!
私の少年時代に影響を与えた友人は何人もいたけれど
"K"の影響力は計りしれないものがあった。外国のハードロック系のバラードも
何曲か演奏していたけれども今の私にはそれほどの印象はない。
"YES-NO"もステージで演奏された。カバー・バンドでありながらそのインパクトは凄いものだった。
"声"という唯一無二の存在は恐ろしいものだった。少年でもシンプルすぎると思える歌詞も小田和正という声を還したFilterを通すと恥ずかしくもなんともないものに変容していった。
むしろそのことばの切実さが相手の心を揺さぶるのである。
"K"は完全にオリジナルキーを保ったまま小田の声を踏襲してステージで唄っていた!

↑"愛を止めないで"と同様のキャプション内容で恐縮であるが,同じ思いである。
現在では数多くの著名アーティストに依ってカバーされている。しかし私にとってオリジナル曲は唯一無二。
"オフコースという集合体"が結実した原曲のオリジナル・サウンドは今の私にとって絶対的である。
現代のYouTubeの世界では再生回数だけは完全オリジナルバージョン”を”カバー曲が凌駕している。
その事実は正直言って私には理解し難い。

そして・・駄目押しは
オフコースの"愛の唄"であった。
"さよなら"よりも遙かに好きなバラードだった。

↑2020年現在。私の評価は40年前と違い"真逆"である。
突き抜ける聡明で透明感のある歌とストレートな歌詞と"TOTO"を彷彿させるアメリカン・ハードロックのバラード的な演奏はいたって新鮮だ

私はもう泣きそうになっていた。それは私だけではなかった。
楽曲の素晴らしさと奏者のオマージュ(リスペクト)の凄さに圧倒されていた。
"K"のファン達も声援も手拍子すらできなくなっていた。
"オフコース"の名曲は"外野"な私にとっても
それは"秋と冬の移り変わり"の印象そのものだった。

↑"愛の唄”オリジナルバージョン

後日私は"K"を何度もなんども機会ある時にあの時のライブを褒めちぎった。

"K"とのアルバム"over"でのやりとりの話に戻したい。

私は"K"にオフコースの"over"のジャケットを"非難"した。

"K"は暫く黙っていたが,
私にこんな事を言ったのだ。

"おまえは凄いボーカリストなんだから,
表面だけで物事を判断するのはもういい加減止めたらどうだ?
レコード(over)貸すから,中身をよく聴いてから言えよ"

29年目にしてようやく私の記憶が蘇った・・

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