“お元気ですか!?”-オフコース-“心はなれて”!!-限りない喪失からの再生!!-“Off Course”という名の記号!!-“1981-1982年”の完全に蘇った追憶!!

ここに・・色褪せた1枚の画像がある。

レコードアルバムのジャケットである。
アルバムタイトルは"over"。

黒字のボールド(太字)で
英語の小文字で"over"とある。

1981年12月1日に発売された"オフコース"通算9作目のオリジナルアルバム。
まずはこのアルバムジャケットの話をしたい。

私と"彼"は小学生時代からの親しい友人であった。
一度も互いに"親友"という言葉を相手に言った覚えはないけれど,
今こうしてはっきりと思い出せる様になった今,少年であった当時
少なくとも私にとってはかえがえのない"親友"と呼べる友人のひとりだった。

"彼"は出会った時から他の誰よりも"飛び抜けて"いた。
"彼"と表現すると面倒だから,
これから本名の頭文字をとって
下の名前で"K"としたい。

私はずっと"K"を"K"と呼び捨てにしていた。
彼もまた凄く少数だったが私の名字で"o"と"呼び捨て"していた。
私のことを"o"と呼び捨てする"知り合い"はあの頃はまだ数人程度しかいなかった。

自分=私は少年時代,
野暮で野蛮で向こう見ずで行き当たりばったりの過激な少年だった。
小学校時代は殴り合いの毎日だった。
何かあるとすぐかんしゃくを起こし目の前の物をすぐ
壊したりする少年だった。

けれども喧嘩は中学生になると馬鹿らしくなり,
"売られ"たら"買って"いたが,一切自分から挑むことを止めた。
けれども生憎いつまでも"じっとしてはいられない"まるで落ち着きのない子供だった。

"K"は出会った頃から自分とはまるで違った。
"別格"という日本語の言葉にそれなりに意味があるものとしたら,
彼は私より何もかもが"ずば抜けて"文字通り"別格"な存在だった。

いやそもそも"K"はあの頃の友人や先輩達の他の誰よりも"ずば抜けて"いた。
外見,家柄,学力,スポーツ,人柄,つまり性格(人格)なにもかも全て。

小学生の頃からすでに"品格"="育ちの良さ"というものがあった。
公立の同じ地元中学校に入ったが,尚更それが目立つ様になった。

高身長を活かしバスケ部に入り,いち早くレギュラーになった。
自分達が先輩と呼ばれる頃になれば,下級生の女子には
"羨望"の的で彼が通り過ぎるだけで奇声が上がることも屡々で
"K"が少しだけ笑顔を送ってやるだけで嬌声があがった。なかには
ひたすら"ため息"を漏らす子がいる程に絶大な人気があった。

けれども彼は何も取り繕ってはいなかった。
元々誰にも(教師や部活の顧問にも)
自然体で格好つけたり,強がったり奢ったりしていなかった。
あの頃は中学校の生徒数が1500人もいた。公立だからいろいろな奴が
いたけれど,どんな相手も誰ひとりも差別しなかった。
そんな人間だったから,不良達にも常に"一目"おかれていた。

彼がその場にいるだけで自然と"K"がリーダーになっている
という案配だった。

それに引き替え自分=私は,
生まれも育ちも粗野で野暮たかった。
私は自分と彼とのあまりにもの違いを多少気にしていたものの,
出会った当初から彼はなにもそんな事は気にもとめていない様子だった。
しかし彼は,根っからの家柄も育ちも私からみたら"生粋のエリート"だった。

私は一度も"K"に冗談でも"エリート”育ちだと"嫌味"を言った覚えはない。
そして"K"と出会った時から彼にたいして一度もライバル心を抱いた事さえなかった。

"別格"="格が違う男"というのは実際に本当に存在するのだ
ということを親友である"K"から学んだ。本当にリーダーシップを張れる男性というのは
格好つけでもなく,努力だけでは決して成り立たない,少年なりに私はその真実を悟った。

そんな何をやっても"K"には勝る事のない自分だったけれど,
ひとつだけ,小学生時代に"勝った"事実があった。

あの頃流行っていた!?珠算(そろばん)で彼と私は同じ珠算塾通いだったが,
彼は最終的には2級止まりで自分は1級までクリアし全国大会まで出場した。

しかしこの結果と事実は,
彼が"そろばん"にただ"飽きた"だけに過ぎなかった。

彼は"1級"試験の時,
何故か当日試験会場に姿を現さなかった。
全てにおいて彼は
完璧な少年であったが,
その日だけ"K"は試験開始時間をそれこそ"完璧"に間違えてしまったのである。
"K"は2級試験の開始時刻と1級試験の時刻を何故か間違えてしまった!

私が1級試験を終え(実父が援護してくれて同伴だった)帰りの駅に向かう途中,
ばったり試験会場で"K"とすれ違った。
あの時の彼のミステイク(ニアミス)さえなければ,人生において私は全て
彼に"全敗"だった筈であある。

私の父は"K"少年を"不憫"に思ったのか,
3人で神奈川県の藤沢駅の今はもうとっくに無い,
狭い地下の薄汚いラーメン屋に連れていってくれた。

醤油ラーメンが"K"の前に置かれた時,箸を持ちながら
突然,まだ"幼かった彼"は泣き出した。
彼は絶対に"勝てる"=1級試験に合格する事に余念はなかったろうし,どんなに努力しても
"K"より先に前に進んだりはしない自分だった。なのに"どんでん返し"が起きてしまっている。
幼い私も"K"が試験出来なかった事を悔やみ,何か悪いことをしたような罪悪感があった。

私の父は彼の頭を第2の息子の様に
"K"が泣き止むまで彼の頭をずっと優しく撫でてくれた。

少年であった私にとって,
父のその思いやりが何よりも嬉しかった。

残りの餃子を3人で食べる頃には"K"は笑顔になってくれた。
あの光景が・・数時間前の出来事の様に今になって
こうして鮮明に思い出される。

その光景は決して哀しい出来事では
ないのに,声も出すこともなく
いま私はまるで汗を掻くように
滝のように涙を流しながら・・
この文章を打っている。

そんな"K"と私との関係性は,
今から29年前に完全に断絶された。

彼自身によって
私との関係は絶たれてしまった。

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