「絶歌」真作(絶歌)か?!-それとも贋作(絶版)か?!-“良識人”の日常への警鐘となる問題作!!
以下の内容は本書踏まえ,
ヘイトスピーチ(人種、国籍、宗教、性的指向や性別、
心身障害などに基づいて個人または集団を攻撃、
脅迫、侮辱した発言及び言動)に対しての否定派としての1意見となります。
差別扇動表現ではと思われる評が多い本書であるが故,
長文となってしまいました。
なぜ本書が注目される(された)のか。
それは凶悪犯罪を娯楽として語られる事はインモラル(不道徳)であるという,
我々の共通した意識がまずあります。
以下は,当方の様な微妙な意見(読む価値があるとする)はそもそも被害者側の立場,
感情を貴様は考えた事があるのか?,
貴様の家族が同じ目に合ったらどうするのだという罵倒叱責がまず想定出来ます。
世論は共同想定内で,犯人を極刑と,
しいては死刑せよと,至って全うな意見とは思います。
しかし,もしかすると其れ(其の繰り返し)で果たして本当(本質)はどうなのか?
という評となりました。
読後感想としては私は少なくとも本書が世に出版されてこうして、
色々な方々の批評に触れられる事、
そして書を通じ
元少年Aの[心の動き]に対峙する機会を得られた事自体は、
良かったと思っています。
ただ、私も読んでいる途中に感情的になったり、
読む事を放棄したいと
思う箇所も少なからずありました。
色々な方の書評をたくさん読みました。
雑感ではありますが,感情剥き出しのショート批評は、
本書にはふさわしくないと個人的には思います。
其れはある面受け手側の「敗北」と私には思えます。
ただ感情的に否定する方の多くは私にとっては
真摯なReviewとはいささか判断出来ませんでした。
「自分は大丈夫・無関係」と思う「善良な市民」は皆評価1でしょう。
では加害者家族の立場,
自分の息子は絶対的に大丈夫?でしょうか。
著者が元少年Aというだけで、
いわば火事場の「野次馬根性」的な話題性や好奇心で触れても、
読んでも殆ど理解出来なかったか、
不快な面ばかりが強調され印象に残ってしまい、
良い面「気付き」が一切相殺されてしまったのではないでしょうか。
また単純に著者批判と出版社を非難するというのは、
私から見ると少し変ですよ。
気持ちは痛い程分かりますが、
感情的な発言は書作物であるが故不利です。
本書内容には登場する加害者遺族,被害者,
被害者遺族,
そして更正に向け身体を張って真に全霊を賭けた篤志家の方々を踏まえ
なにがなんでも「彼」を更正させるんだという信念の元に「義」を貫く姿勢を通して下さった方々に対して
の動きがそれなりに生々しく単純に読んで理解出来、
著者自身彼らによって支えられ、
更正への心の動きが生じた事に私は理解出来ました。
暫しエージング(寝かせていた)状態の本書を近日
「解禁」し通勤電車内で熟読し,
自宅で繰り返し戻し読みする事で
最後に付箋だらけと化しました。
身内にまず本書の表紙はやけに
真っ白だがコレ著者(少年A)の潔白さの証明?を具象化してんのかな??
と尋ねた処,そもそもこんな本に写真やイラストの依頼あっても誰もが断るでしょ?
と言われ、あぁそういう判もあるのかと・・なる程。
表紙を剥くと・・今度は真っ黒。
何びとも・・
ひとはみな(民族・国境・言語・宗教)を越え,
自身の理解(経験スキル)を遙かに超えた領域=ここでは本書の一部の内容を指す,
に遭遇すると,ただ感情的になってしまい,
怒り出すか,出版社を含め、
付随する関連諸団体を建設的な弁明なきまま誹謗し全否定する方がいるということです。
其れは自身を防衛する面では,
侵犯される恐れのある内容においては、対象を
拒絶する事は自明的だとはいえます。
章によっえはタブー(罪)を完全に侵犯している箇所があります。
現在の自分に到底理解出来ないもの(キャパを越えた脅威となる存在)に対しては徹底的に否定し,
怒りの感情でもって数行程度のReviewで否定、
この件は済んだものと事なかれと帰すという流れは想像できます。
しかし、其処にはひととしての理知があまり働いていないとも当方は考えます。
そんな所作の積み重ねはやがて強いマイノリティ差別にへと繋がる可能性があり、
まさに心身を削って更正に全力を傾けた方々の義とは明らかに反した世論の動きはこの国の危うさ
のひとつではないかとも考えます。
余談になってしまい恐縮ですが、
日本には根強い被差別部落問題や
同和問題・・同じアジア人でありながらも不毛な根拠なき差別的な発言、
セクシャルマイノリティ差別等、
匿名という名のもとにあらゆるネット上でも
目や耳を洗いたくなるような感情的な暴言の数々、
2行程度の全批判というものに触れてしまう機会が誰もあり、それは遺憾なことであり、
何一つ同調出来ず、課題解決せず、ますます溝が深くなり果てわれわれは「ひとつ」になる事が出来ません。
我々は今ひとつ、本件のような大事な問題にたいしてはもう少し、
あと少しずつ
冷静になる必要があると思います。
そもそも本書がまず出版物であり,
日図協(日本図書協会)も「本の扱いを制限すべき事例にはあたらない」とし、
市の図書館に置くおかないの是非は各自治体次第です。
つまり有害図書扱いではありません。
現在の少年Aは既にわが国である日本の遵法下におき更正カリキュラムを経て既に社会復帰し、
誰に文句も言われる筋合いは本来なきものです。
出版そのものに関しての是非は特に
加害者側が自らの犯罪物語を出版販売することによって利益を得ている、
と思われる本件におき否定的意見が多集中しているかと思えますが、
その事も
サムの息子法(米国)に見られるように
それらを阻止する目的で制定された法律は現在のところ日本にはありません。
ご周知の通り、
日本には憲法という独特な幻想とでも言えるような絶対的な
法が定めれており、そこには基本的人権の尊重、表現の自由、知る権利など等、
社会的問題が重くなればなる程、
どれもがクロスしてしまい、グレーゾーンが増え、
民事のみならず刑事問題においても、
にっちもさっちもいかなくなり果て、
当事者同士間おき主張矛盾が生じるということしばしばあります。
知る権利が先か、表現の自由が優先されるのか、
いやいやまず人権の尊重が
最も優先される筈であって絶対的に不可侵である等、
様々な課題が本件にも孕んでいます。
しかし感情的に全批判する方は、
最後まで隅々精読したのでしょうか?
私が知りたかったのは彼の更正へ向けた真に「心の動き」でした。
派手な映像や威圧的なSoundや声も,
当然ですが触感も匂いもありません。
静的な
送り手(著者)と受け手(読者)との一騎打ちといったら妙ですが,
書との出会いはある面
理知のみのぶつかり合いで、
内容次第では真剣勝負に近いものを感じる事は当方はあります。
読む前から少なくともそれなりに覚悟し,精読してゆきました。
本作の弱点面は,受け手にとり、
偏見的感想が起きやすい形(表現)での出版,これに尽きたと思います。話題性よりも、
内容的に査読が必要とされるような学術的な面ではなくて、娯楽性が高い表現方法での出版、
それが「あだ」になったと思います。
後述しますが一部、最,
社内で十分検討し校正すべき箇所(もしくは削除する頁)があったと考えます。
うそを書き捏造するのと、
掲載しない部分(校正段階におき割愛もしくは削除)をすることとはまるで違うと思います。
何でも垂れ流して良い筈はなく、
書が世に出るという事は何十年も世に影響し得る
という社会的意義を十二分に踏まえ分別をわきまえ何を一心に伝えたいのか,
きちんとしていればブレずに被害者遺族の方、
しいてはもう少し
踏み込み被害者個人尊厳に対する「配慮」が最反映されるべきであったと思います。
出版是非に関しては、相当ハードルの高い,
難題であったのではとは察します。
絶歌出版について、取締役社長の岡聡氏の弁をホームページで書に接する前に拝読しました。
私は営利目的だけでなくて、
出版社側の多かれ少なかれの「義」の心を、信じたい。
なぜそう思うのかは、大田出版に関しては良著もたくさん出版しているからです。
太田出版の代表取締役の岡聡氏の文面はネット上で現在でも公開されています。
本書の著者は,近代現代の文豪の小説(例,Double村上=春樹氏,龍氏,三島等)からの引用が多く,
其処に一般市民レベルへの(分かりやすさ)修辞技法的アプローチ考慮・意識したと考えます。
(ただそれでもかなりハードルが高い(難解である)引用も箇所にはあると当方は判断しています。)
少なくとも本書はジュルジュ・バタイユ(フランスの思想家)や
ニーチェ辺りは軽く蹈襲していないとまずまともに対峙するのは困難なのではと感じました。
付け焼刃的な好奇心だけでは、
まず読解が難しい局面が多々あると思えます。
ベタにあえて哲学や思想家の引用はされていませんが、読者側が理解していて当たり前とさえ
感じるふしは読んでいて何度か感じました。
(例とし,大藪春彦氏の処女作「野獣死すべし」の主人公「伊達邦彦」のことば引用から→ニーチェ思想の暗喩)
以下後述はネタばれの面があります。
これから本書を読む予定で検討なさっている方はご注意ください。
本書は少年A(作家の中で大家ではない)の真作とした上で、
まず数十頁を読んで当方は圧倒されました。
この書はすべてテープの起こしで、
実はゴーストライター(構成作家)によるものとまず疑いました。
実本人の肉筆によるものか、疑いを感じざるを得ないほどに「文学的」な表現があります。
少年時代彼がが生活していた(そして被害者が生活していた)ニュータウンの説明、聖域化したタンク山周辺の
二つの池描写、懐かしき小学生低学年の時代の心象描写、
都市vs自然構図、それに対する表現力、ニュータウンのエッジに繰り広げられた
全自然の原光景色の表現は「匂い」たつ程に読んでいる当方の脳裏に迫力ある視覚映像
となって迫ってきました。タイトル「それぞれの儀式」の項目では、正直読んでいて「舌打ち」しました。
色々とその後、祖母の死からの性倒錯日記的な一章の前半部ですが、
ここでいち読者の当方にとっても最悪な箇所があり明記します。
一番出版社(および著作者)が考慮・配慮しなくてはいけない項目は、
「GOD LESS NIGHT」という項目です。
ここは割愛するか、1行か2行で「ご周知の通りです」
とそれだけで終えるべき箇所と当方は判断します。
被害者遺族側に対し、あまりに配慮の欠けた・・といわざるを得ません。
読者側の知る権利、そして表現の自由は通用しない、駄文であると個人的には思います。
はっきり云えば、
被害者人権に対する尊厳冒涜行為と見なしても差し支えなき内容です。
知らなくて良いことを無理矢理読まされている苦痛、
とでも言える項目でしょうか。
ここは幾ら表現の自由権利を弁明主張しても駄目でしょう。
所謂、性悪説まるだしの作者の利己自己顕示丸出しです。
本書自体の全体の流れに濁りが生じ、矛盾と亀裂が生じ、
整合性が取れずに、第2章以降は総て無駄な構成となります。
2章から「あとがき」までと、ここの項目を繋げて改めて読むと、
2章以降は本人のただの苦言となり、不快なインパクトのある本項目
だけが強調されで一般の読者はこちらの印象に引きずられる。
マス世論も1章に評価が集約されるでしょう。
この項目の説明(頁)の能書きや弁明が長くなればなる程、
まるで自分のやったこと(罪)を客観視し、
ただ正当化したいだけなのか?と読者に判断される。
私も読んでいる最中、左下腹部に強い身体的な痛みさえ走りました。
もしこの項目も大事で本命なら査読に値する学術論書の一部分提供であるか、
一般人が目に触れぬ類のメディア扱いでなければいけません。
外国の猟奇犯罪の大家コリンウィルソン自体は元犯人でもなん
でもないので色々書くことは出来ても、本書に関しては
元少年犯人が書いているが故、本項目だけは多重なる出版側の
検討校正、もしくは削除すべき箇所だったと思えます。
その2つ後の項目「父の涙」においては
読んでいて吐き気さえおき、本を投げ出したくなりました。
しかし、こらえ読み進んでゆきました。
最終的にはは総て読み終え良かったとは思ってます。
細かい部分の積み重ねですが,2章は特に私にも理解出来る
部分がたくさんありました。
が
最後の「被害者のご家族の皆様へ」を読んで・・
本書は贋作?ではと不信感を抱きました。
ラストは元少年A自身の「言葉」、
本文は肉筆ではなく構成作家による文章・・という気がしてきました。
作為的な文体はあらゆる所で見受けられ、しかしこれはなかなか具体的に論じることは
私には難しいのですが、なんというか総括すると「一貫性」がない書作である、という印象です。
お金の動きは分かりませんが,確実に言える事は
この書は問題作である事は間違いありません。
最後まで読んで下さった方々,長文戯文どうか御赦しください。
-追記-
本書を通じ佐世保女子高生猟奇殺人事件のこともずっと考えながら読み進めていました。
医療少年院を出,こうした罪を犯した若者を我々がどう受け止め本人達が
「生き続ける」ことによって粛罪してゆけるになるにはどうしたらどうしたらよいかと悩みました。
そういった意味では読む価値はきっとあるものであると個人的に評価します。